聖書 エレミヤ書33章14~16節、ルカによる福音書21章25~36節
人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。
あなたがたの解放の時が近いからだ。(ルカ21:27-28)
はじめに
今日から大型液晶モニターを使っています。今年の7月28日におこなわれた教会懇談会で出された意見がこのような形で実現しました。私達は今年2月の定期教会総会で『宣教40年教会ビジョン』を決めました。それは「互いに愛し合う教会」、「伝道する教会」、そして「開かれた教会」です。高齢者や体の不自由な人が重い聖書や讃美歌を持たなくても礼拝できるようになるのではないかと考えています。また、このモニターには日本語以外の言葉を表示することもできますから日本語を母語としない人たちも一緒に礼拝に参加できるようになると期待しています。今は、置き場はここで良いか、どんな内容を表示するか、誰がどのように準備し礼拝中に表示するか、などを試す期間ですので、皆さんの意見を私や役員に伝えていただければありがたいです。
アドベント最初の主日
さて、今日からアドベントが始まりました。教会の暦では今日から新しい1年が始まります。歴史は世の始めから終わりに向かって進んでいますが、私達が創造の七日間にちなんで1週間という単位を繰り返して生活しているように、1年を一つの単位として、神が導いてこられた歴史を辿り、今も導いておられることを覚え、更にこれから起こる幻を見せていただきながら礼拝をおこなっています。
アドベントはイエス様のお誕生をお祝いするクリスマスを待ち望む期間です。その最初の主日に読まれた聖書の箇所は「終わりの日」に関する御言葉でした。このことを不思議に思われるかもしれません。この理由は、イエス様の誕生をお祝いすることの中にイエス様が再びこの世界に来られる再臨を待ち望むことが含まれるからです。アドベントの期間をイエス様のご降誕をお祝いするクリスマスを待ち望むと共に、イエス様の再臨を待ち望む期間として過ごしたいと思います。
恵みの約束
先ほど読まれたエレミヤ書33章14節に「恵みの約束を果たす日が来る」という神の言葉が記されています。これは神が「良いことを起こす日が来る」ということです。紀元前600年頃にエルサレムはバビロニア軍によって破壊され、ユダヤ人はバビロンに連れて行かれて労働に従事させられましたが、70年間の後に回復されました。エレミヤ書の預言はこの解放を告げています。さらにこの預言はキリストの1度目と2度目の来訪をも暗示しています。1度目は人間イエス様としてこの世に来られました。そして2度目には復活の体でこの世に来られます。15節と16節には次のように書かれています。
その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。
神はダビデ王に代表される人間のために「正義の若枝」を生え出でさせると約束されました。このお方は「公平と正義」でこの世を支配されると神はお告げになりました。このお方こそ「私たちの救い」です。ユダヤの人々は600年間、「正義の若枝」を待ち望み、その信仰を継承しました。
この「待ち望む」ということについて長年『信徒の友』に「マンガ説法」を掲載した春名康範牧師は「それでもクリスマスはやってくる」という文章で、ザカリアと言う高齢の祭司とその妻エリサベトに子どもが生まれた出来事(ルカ1章)を例にして次のように書きました。
ザカリアは天使から信じられないような知らせを聞いて、とても受け入れられませんでした。しかしザカリアが信じようと信じまいとエリサベトは子どもを宿し、ヨハネを生んだのです。これが老いたザカリヤとエリザベト夫婦が経験したクリスマスの出来事だったのです。私たちの救いは私達の信心や信仰の気分の高まりや、信仰の知識の豊かさによって決まるのではなく、あくまで神ご自身の働きによるのです。クリスマスは私達の信心がキリストを生んだ出来事ではなく、私たちの罪にもかかわらず、キリストが来て下さった出来事なのです。
クリスマスはこの大いなる出来事を思い起こし、神の救いの恵みに感謝する日です。それは私たちにとって特別のお祝いの日なのです。そして更にイエス様が再び来てくださる再臨を待ち望む時でもあります。
終わりの日のキリストの再臨
先ほど読まれたルカによる福音書21章25節から36節の御言葉はイエス様が再臨される終わりの日のことを、イエス様ご自身が弟子たちに予告した箇所です。この再臨も神ご自身の働き、すなわち神の御心ですから、私たちの信仰の如何によらず神が定められたときに起きます。
再臨の時は天体に徴が現れ、地上では海がどよめき、人々は不安に陥り、怯え、恐怖にとらわれるといいます(25,26節)。そのとき、キリストが大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来ます(27節)。しかし救い主を信じる人々はこの徴(しるし)を知ったら身を起こして頭を上げなさい(28節)とイエス様は言われます。キリストの再臨は裁きを経て新しい天と新しい地が始まり、キリスト者は復活してその地に生きるようになるからです。
しかし、イエス様は「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(32,33節)と言われます。この言葉は希望です。どんなに不吉なことが起こっても、不幸な状態になってもイエス様の言葉は在り続け、その言葉に拠り頼んで進んでいけばよいのです。
私たちの生き方についてもイエス様は教えてくださいました。それは再臨までの期間を「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意する」(34節)こと、「起ころうとしているすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈る」(36節)ことです。心が鈍くなれば神の言葉が聞こえなくなります。私たちはどのような状態でも神の言葉に耳を傾けておかなければ平安でいることはできません。
主のご降誕という驚きの出来事が起きました。クリスマスが私たちの信仰によらずに神の御旨によって起きたことと同じく主は再び来てくださるのです。
神の御旨は成就する
礼拝堂に大型モニターが設置されました。このことは決して偶然の出来事や気まぐれによることではありません。教会懇談会で大型モニターを礼拝に用いたいという願いが語られ、人々の祈りがありました。神はその祈りに応えて人に幻を与え、またそれを手に入れるための資金を蓄えさせました。人は礼拝に集う人々の喜びの幻を見て、大型モニターを願う心を与えられました。そして神は通常では考えられない価格で大型モニターが販売されていることを知らせました。人間的に見れば偶然の連続です。しかしその背後には神の導きがあるのです。
私達は大型モニターが来て良かったと思うだけでは不十分だと思うのです。神が私たちの願いをお聞き届けくださったと信じ、神に感謝をささげなければならないと思います。これは小さな出来事ですが、私達は神の御旨がこのようにして成し遂げられることを知る貴重な機会を与えられました。神の恵みに感謝したいと思います。
ご降誕を祝い再臨を待ち望む
キリストは再び来られます。クリスマスの夜に来て下さったように再び来られます。なぜならそれが神の御旨だからです。私たちはこのことを信じてクリスマスを待ち望みたいと思います。