聖書 マラキ書3章1~4節、ルカによる福音書3章1~6節
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』(ルカ3:4)
市民クリスマス
昨日は千葉市民会館で『市民クリスマスin千葉2024』の催しがありました。この催しは千葉市内のいろいろな教会が合同で実行委員会を組織して企画し、千葉YMCAが事務局をしてくださって開催しているものです。クリスマスは商業化されてしまって多くの人々はクリスマスはイエス様のお誕生を記念して始まったものだということを知りません。クリスマスの起こりや意味を知らせることは教会の大切な働きです。日頃はそれぞれの教会が個別にイエス様のことを伝えていますが、この催しのようにいろいろな教会が一緒になって合同でおこなうことはとても大きな意義があると思っています。
道を整える
今はアドベント、クリスマスを待つ期間です。今日は救いを叫んだ預言者たちの言葉が私たちに与えられました。それは「道を整える(備える)」ということに関するものです。道とは生きる道つまり人生のことです。
私の人生についての意識の変化を少しお話ししたいと思います。私はイエス様を知るまで人生はどのように生きればよいものか分かりませんでした。小さい頃は家族に守られていましたが、自分がなぜ存在するのかに疑問を持ち、過去、現在、未来に思いを馳せていました。主イエス様に出会ってから、自分は神に知られていることを知りました。今では私は神に知られているような者としての私であるという安心感があります。だから人の目を気にしなくても良くなりました。知らない人と会っても誤解されるのではないかといった心配をすることがなくななりました。自分が自分であることは心や体を解放するんだなということを感じています。これが私の生きる道だと思います。預言者マラキやバプテスマのヨハネはこのことを告げ知らせているのではないかと思うのです。
その生き方は真っすぐであり、広い平らな道である。決して困難や苦労がなくなったわけではありません。毎日、いろいろな課題を抱えて生きています。現実には苦労が多いのですが、生きる道はその苦労によって失われることはありません。いや、生きる道がはっきりと見えているから苦労も苦にならないということなのではないかと思います。
荒れ野の声
預言者マラキは「契約の使者が人の前に道を備える」(マラキ3:1)と告げました。その使者はこの世界に来られると言いました。使者は人を精錬して汚れを取り除き、主を礼拝するのにふさわしい者にしてくださるのです。
精錬とは不純物が混じっている金属から不純物を取り除くことです。不純物が混じっている金属は脆いので、私たちの役に立ちません。しかし不純物を取り除くとその金属は硬さが増して粘り強くなります。その精錬の際には不純物を取り除くための石灰などの灰汁(あく)を入れるのです。灰汁(あく)が不純物と反応して純粋な金属より高温で固体になるので金属から分離できるようになります。このようにして金属は純粋になっていきます。人間もこれと同じです。神さまが私たちをお造りになった時には、聖い者でしたがいろいろな不純物が入って来て汚れてしまいました。この汚れは表面を洗ったりこすったりしただけでは取れません。人間も精錬という裁きを受けて汚れを取り去っていただかなければ神様がお造りになった時の聖い者に戻ることはできません。裁きとは罪に定めることではなく、人を精錬して純粋な者、すなわち神が創造された像に戻すことなのです。
主なる神さまは聖い者となった人間が献げる献げ物を喜ばれます。それが主にとって好ましいものだからです(マラキ3:4)。献げ物を喜ぶだけでなく、献げる人間をも喜んで下さいます。
次にルカによる福音書をご覧ください。福音書記者ルカは洗礼を授けるヨハネが実在したことを、当時のローマ皇帝ティベリウスやユダヤ総督ポンティオ・ピラトたちの名前を挙げて示しています。そのヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」言い換えると「生きづらさや絶望から解放してくださる悔い改めの洗礼」を叫びました。この声こそ「荒れ野で叫ぶ者の声」です。
「洗礼」という言葉が書かれています。洗礼は人が主イエス・キリストを信じてキリスト者となるときに受ける儀式で、バプテスマとも言います。日本語では「洗う儀式」と書きますが、これは今までの自分が死に、新しい自分が生まれるという第2の誕生を意味します。人間の表面を洗うだけではなく、内部をも聖い者にしていただくことです。
ヨハネはこの洗礼の意味をイザヤ書40章3~5節の言葉を引用して人々に示しました。4節から6節に書かれている次のような言葉です。
これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
洗礼を受けた者は主の道を真っすぐに神の国を目ざして人生を歩きだし、神の救いを見るのです。
主の道
主の道とはどのようなものでしょうか。今日の御言葉はイエス様が登場する前のヨハネのことを語っていますが、ここは聖書の他の箇所との関連を見てみますと、イエス様が次のように言われている言葉に出会います。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
イエス様は、人間の目指すべきところは父なる神の国であること、そしてイエス様の教えや行いが道だということを教えてくださいました。主の道はすでに整えらました。イエス様はこの世界に来られ、私たちに言葉と行いとで主の道をお示しになりました。イエス様の言葉を聞き、その言葉に従うことが主の道を行くことなのです。
この言葉の意味は私たちが考えるよりももっともっと深いものがあります。それは「誰でも神の国に行くことができる」という驚くべき言葉なのです。悪人でも、罪を犯した者でも行くことができるのです。この言葉は私たちの希望です。なぜなら人は誰でも悪人になり、小さな事柄であっても罪を犯した存在だからです。あの人は救われて、この人は救われないということはありません。
ヨハネの言葉は厳しい裁きの言葉ですが、その裁きの意味は誰でも救われるということなのです。私でも救われました。あなたが救われない理由はありません。
しかし一方でイエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ18 :24-25)と言われて、悔い改めない者が神の国に入ることはできないことを教えてくださいました。そして「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタ7:13-14)と、悔い改めて洗礼を受けることへと人々を促しました。狭い門であっても決心すれば誰でも入ることができます。
主の道を歩む者とそうではない者とはどういう者かについて、イエス様は2人の人を例に挙げて示しておられます。自分は正しいものだと自惚れて人を見下している者と神の前に懺悔する者です。これはルカによる福音書18章9節から14節に書かれています。イエス様は「義とされたのは神の前に懺悔する者であり、うぬぼれて人を見下している者ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と教えてくださいました。
迷う経験
行き先が定まっていなかったり、そこに至る道が複雑だと迷ってしまいます。私は土気に住むようになって千葉駅から市民会館に行くのに迷ってしまったことがあります。当時の私には道が複雑だったのです。スマホの地図を見ても迷いました。実は昨日も千葉駅周辺で道に迷ってしまいました。あのあたりは千葉駅から放射状に道ができているので、千葉駅まで戻った方が良かったのに、近道をしようとして方向が分らなくなり目当ての店に行きつかなかったのです。しかも目当ての店は移転していて、そこにはありませんでした。道は整えられておらず、曲がりくねっていました。
神の国への道
私達は「荒れ野で叫ぶ者の声」に耳を傾けなければなりません。イエス様が現れる前に現れた洗礼者ヨハネは「主の道を整えるように」と人々に叫びました(ルカ3:4-6)。これは悔い改めて主イエス・キリストを信じ洗礼を受るということです。人は生まれ変わることができます。どんな罪びとでも悔い改めて洗礼を受けることによって生まれ変わり、神の国に入ることができます。
神はすべての人が悔い改めて主の道を歩くことを望んでおられます。人は皆、神の救いを仰ぎ見るようになります。これは神が私たちに与えてくださった驚くべき幻です。