12月15日礼拝説教「救い主を待ち望む」

聖書 ゼファニヤ書3章14~20節、ルカによる福音書3章15~18節

「お前の主なる神はお前のただ中におられ
士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファ3:17)

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。
わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)

説教(神の言葉の宣教)

裁きと救済の預言

旧約の預言者ゼファニヤはユダヤが神から離れていた時代に活躍した預言者で旧約時代のユダ王国の宗教改革のきっかけを作る「裁きと救い」を預言した預言者です。ゼファニヤ書は3章からなる書物ですが、1章から3章前半までには厳しい裁きの言葉が記されています。そして本日、読まれた3章14節から20節は救いの預言が語られています。私たちは裁きがあることを忘れて、救いだけを手に入れることはできません。ゼファニヤ書では「残りの者」というキーワードが出てきます。これはたとえば3章13節にあります。反逆と汚れに満ちたユダ国の中に主なる神を信じ、その教えに従って生きる人々を主は残しておかれたのです。

ですから14節、15節で「心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。」という喜びの宣告がなされます。この宣告がなされた時は、まだバビロン軍によってユダ国が滅ぼされて人々は捕囚になるということが起きる何十年もまえのことでした。そのことは主なる神の裁きでした。しかし主はご自分に従う「残りの者」を選ばれました。その人々は世代を超えて主なる神の教えに従って生活しました。その後、主は神に従う人々を17節から19節に預言されていたように、救い出されたのです。

このバビロン捕囚と解放の出来事は主の救いがその後の歴史においても、また現代においても起きることのモデルです。主が私たちを救うという約束の実例を示されたのです。

バプテスマのヨハネの告白

新約聖書はルカによる福音書3章15節から18節が読まれました。

15節 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

ルカによる福音書の冒頭からここまででメシアという言葉が出てくるのは3か所です。最初は天使ガブリエルがマリアに受胎告知をした場面、2度目は神殿でイエス様に会ったシメオンについて語られた場面です。そして3度目がここです。当時、ユダヤの人々にはイスラエルの復興と神の支配の勝利のためにメシアが遣わされるという期待がありました。そしてバプテスマのヨハネがそのメシアではないかと考えたのです。彼は「悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えて、多くの人が彼から洗礼を受けていたからです。

しかしヨハネは「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(16節)と言って、メシアであることを否定しました。そして「自分よりも優れた方」が来られると告げました。「そのお方は、聖霊と火で洗礼をお授けになる」お方です。先週の礼拝で私は「精錬」という金属を溶かしてある処理を行い純度の高い金属にすることをお話ししました。ここでヨハネは「聖霊」と「火」という言葉を用いて、人を心も体も聖くするお方が来られることを告げました。ここではそのお方が誰であるかは記されていませんが、ヨハネはそのお方が現れることを人々に告げ知らせました。

そのお方は裁く方でもあります。ヨハネは17節麦の脱穀のたとえを用いて、そのお方は麦ともみ殻に分けると告げました。ここではもう一度「精錬」のたとえを思い出していただきたいのですが、私たちの中から麦と殻を分けるのです。人を麦と殻に分けるのではありません。しかし主なる神を信じていない人々はこの裁きに耐えることができないと聖書は語ります。エゼキエル書22章14節には主なる神が「わたしが裁きを行う日に、お前の心は耐えられようか。お前の手の力はうせないだろうか。主であるわたしが、これを語りこれを行う。」という言葉があります。私たち人間はメシアすなわちキリストの救いなしにこの裁きに耐えることができません。

ヨハネが告げた言葉は悔い改めの洗礼でした。そして来るべき救い主が現れることの宣言でした。イエス様はヨハネの後に人々の前に現れることになります。

バプテスマのヨハネの使命

このヨハネは福音宣教にどのような役割を果たしたのでしょうか。水による洗礼を説き、人々に洗礼を授けました。しかし「神の国が近づいた」という救いの宣教は行いませんでした。それは来るべきお方の登場を待たなければなりません。

バプテスマのヨハネの誕生や生い立ちを聖書の言葉から辿ってみると、彼は次のような人物でした。この人はイエス様の母マリアの親戚エリサベトの子でイエス様より6カ月早く生まれました。そして健やかに育ち、イスラエルの人々に悔い改めの洗礼を告げるまでは荒れ野にいました。彼の身なりはラクダの毛衣に革の帯で、食事はイナゴと野蜜でした。多くの人が彼のもとに来て洗礼を受けました。そして彼はユダヤ王ヘロデに律法違反の罪を告げたことから、捕らえられ殺されてしまいました。

彼は言わばユダヤ教の修行僧のような存在でしたし、それらの人々よりも、もっと過酷な修行を積んだ人だったと言えるでしょう。そして彼は人が罪を赦されるのは悔い改めて洗礼を受けることだという啓示を受けたのです。

バプテスマのヨハネで私が思い出すのは画家グリューネヴァルトが描いた『イーゼンハイム祭壇画』です。(Chapel_of_Unterlinden_Museum_with_Isenheim_altarpiece.jpg (2912×4368)

中央に十字架につけられて亡くなったイエス様が描かれており、イエス様の左側に洗礼者ヨハネが描かれています。イエス様の右側の白い服の女性は母マリア、支えているのは使徒ヨハネ、両手を組んでひざまずいているのはマグダラのマリアです。イエス様の左側のバプテスマのヨハネの左手には聖書があり、右手はイエス様を指し示しています。

バプテスマのヨハネはイエス様を指し示しています。彼は誰でも悔い改めて洗礼を受ければ罪が赦され、希望を持ってい来ることができるようになるということを説きました。しかし彼は自分が人々を救うメシアであることを否定し、自分の後から来られる方がメシアであることを示しました。

私たちの使命

私たちもゼファニヤ書に示された「残りの者」です。そして私たちはキリストを指し示す存在です。キリストは既に来られました。そして再び来てくださいます。キリスト者は信仰と礼拝に集って主を賛美することや愛の交わりを通しての奉仕において、主が召して下さる日までキリストを指し示し続けます。救い主キリストを待ち続けるとはこのような生き方であります。