聖書 イザヤ書62章6~12節、ルカによる福音書2章8~20節
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシア(キリスト)である。(ルカ2:11)
説教(神の言葉の宣べ伝え)
人が一番望むもの
人が一番望むものは何でしょうか。インターネットで検索すると、最近の人々の答えは「安心」であり「自らの意志を持って生きること」だそうです。これは若い人や働き盛りの人だけの望みではなく、高齢になっても一番の望みではないかと思います。
安心には生活が安定していること、自分や家族が健康であること、事故に遭わないことなどいろいろなことが含まれるでしょう。しかしどれだけのことをしておけば安心でしょうか。将来に対する不安は尽きません。
次に、自らの意志を持って生きるというのは自分の人生を自分で選び取るということですが、自分に一番ふさわしい人生が何であるのかを知るには自分が何者かを知らなければなりません。自分は何者なのか、人生とは何か。
若い頃は人生論や哲学書を読みましたが、なかなか疑問に応えてくれるものに出会えませんでした。そもそも内容が難しくて理解できなかった記憶があります。
自分が何者かがわからなければ「自らの意志を持って生きること」はできません。本日与えられたみ言葉を通して一番望むもの、言葉を変えて言えば私たちに一番必要なものは何かについて思いを巡らせつつ、神の言葉を聞きたいと思います。
最初に社会で一番弱い人々に福音が告げられた
本日与えられたルカによる福音書は、天使が現れて、羊飼いに世界で初めて救い主イエス様が生まれたことを告げる箇所です。羊飼いたちは当時の一般の人々から蔑まれ見捨てられた存在でした。彼らは夜の間、城壁で囲まれた安全な町の中ではなく、野獣や強盗に襲われる危険な場所で野宿をして羊の番をしていました。しかし一方では夜空を見上げ悠久の時を感じていたし、天体の運行に人の力の及ばない大きな力を感じていたのではないかと思います。いわば神さまに近い所にいる人たちであったといえます。その人たちに一番最初に救い主の誕生が知らされました。
9節に「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」と書かれています。そんなある日、羊飼いたちのところに主の天使が近づきました。そして天使は恐れている羊飼いたちに「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(10~12節)と救い主の誕生を知らせました。
メシアという言葉はヘブライ語でして、ギリシア語ではキリストと言います。救い主(キリスト)イエス様がダビデの町、ベツレヘムでお生まれになったのです。その「しるし」は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」ということでした。
すると天から「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という賛美の声が聞こえてきました。天使たちが離れていったあと、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、ベツレヘムに行き、そこで飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました」(20節)。
羊飼いたちに最初に救い主の誕生が知らされたのは神さまは社会で一番弱い者を心に留めているということを象徴しています。そして羊飼いたちは大いなるお方がおられることを受け止める心の準備ができていたと言えると思います。彼らは乳飲み子に会うと、神をあがめ、神を賛美しました。
救いの約束(預言)の実現
旧約聖書のイザヤ書62章は神がご自分の民に戻ってくることの幻が預言者イザヤによって語られています。悲しみがいつまで続くのかと嘆くユダヤの民に対して、主なる神はイザヤの口を通して「エルサレムを全地の栄誉とするまで」(7節)、すなわち「エルサレムの救いが来るまで」であることを告げました。悲しみはいつまでも続くのではないのです。主なる神は最後には神の民のところに戻ってきます。「あなたの救いが進んで来る。」(11節)のです。この預言は御子イエス・キリストの誕生によって現実のものとなりました。しかもこの救いはユダヤ人だけでなく、すべての人が受けることができるのです。これが私たち人間に贈られた神からの大いなる贈り物です。
私たちは愛によって生きる
さて、自分が何者かを知るために3つの問いを考てみたいと思います。 (1)人の中には何があるか、(2)人に許されていないのは何か、(3)人は何によって生きるか。皆さんはこの問いにどう答えますか。文豪トルストイは第1の問いに、人は他の人を見て不憫に思って何かをしたくなる心がある、それは愛だと示しました。第2の問い「人に許されていないのは何か」について、人は自分に何が必要かを知ることが許されていないと示しました。聖書の御言葉では、ある金持ちが大量に獲れた穀物や財産を収める倉を建てて将来を安心した日の夜に命が取り上げられるというたとえがこのことを示しています。これはルカによる福音書12章に書かれています。私たちは将来を知ること、そして何が必要かを知ることが許されていないのです。
そして第3の問い「人は何によって生きるか」について、トルストイは最初に否定的な答えを提示します。人は自分で自分のことを心配しているから、それで生きていけるのだと思っているという答えです。本日の御言葉で言えば、羊飼いたちは自分たちのことを心配しているから生きていけるのではない、ということです。そして次の答えを提示します。「すべての人は自分のことを思う心ではなく、愛によって生きている」ということです。
神は遠い昔からご自身が愛であることを預言者によって示してきましたが、最後にご自分の独り子をこの世に与えることによってご自分が愛であることをお示しになりました。それが「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」イエス・キリストです。このお方は神が遠い昔に預言者イザヤに語らせた救い主です。
「私たちは愛によって生きる存在である」。このことを知れば「安心」で「自らの意志を持って生きる」人生を送ることができます。
神の言葉が人となった
私たちに与えられた贈り物とは私たちが何者かを教えてくれる言葉だと思います。神の言葉、それは御子イエス・キリストです。クリスマスはその御子の誕生をお祝いする日です。救いがこの世に来られました。羊飼いたちがしたように、私たちも救い主の誕生をお祝いし、神をあがめ、賛美しましょう
以上