12月29日礼拝説教「さあイエス様のところへ」

聖書 民数記6章22~27節、ルカによる福音書2章12~21節

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:21)

説教(神の言葉の宣べ伝え)

2024年の導きに感謝

2024年最後の礼拝となりました。この1年を振り返りますと教会創立40周年を神さまに感謝し、お祝いする年でした。キリストの教会にとって40年には特別な意味があります。モーセがエジプトで奴隷だった同胞を解放して荒れ野の旅を続けた期間が40年でした。それで土気あすみが丘教会も40周年をお祝いすることにしたのです。6月30日に創立40周年記念礼拝を行い、40周年記念誌を発行しました。そして10月12日にクリスチャン演奏家のフルーティスト紫園香さんとピアニスト菅野万利子さんをお呼びして記念コンサートを行いました。毎年の活動の中にこの大きな活動が加わり大変でしたが、創立から40年の歩みを教会として整理することができましたし、何よりも新たな力を頂くことができました。一昨年5月にコロナ感染症の対応が緩和されて、マルタの会や壮年会や子どもの教会の活動が徐々に活発になって来たこともあって創立40周年をコロナ感染症以前の形でおこなうことができたことを共に喜びたいと思います。教会員だけでなくキリストの教えに興味を持っている方が参加してくださったことも嬉しいことでした。

最初のクリスマス

さて、12月24日の日没後から25日の日没までイエス様の誕生をお祝いするクリスマスでした。最初のクリスマスはたいへんささやかなものでした。それは両親のマリアとヨセフ、それに天使から救い主が生まれたことを聞いて駆けつけた羊飼いたちだったと聖書に記されています。

羊飼いたちは天使がいなくなってから「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカ2:15)と言って、救い主誕生の出来事を見届けるためにベツレヘムに行くことを決意しました。そして急いでベツレヘムに行きました。日没後ですしあかりなどありませんから、暗い道を進んでいったことでしょう。羊飼いたちは天使から聞いた「しるし」を目当てに救い主を探しました。「しるし」と「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(12節)です。その日に生まれて飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんは他にはいなかったでしょう。彼らは「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました」(16節)

羊飼いたちが見た光景は幼子について天使が話してくれた通りでした。それはこんな言葉でした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10~12節)。そして天で「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(14節)という大きな賛美の声が起こりました。そしてベツレヘムに行って、本当にその乳飲み子を見たのです。

羊飼いたちはこのようなことを近所の人々に話しました。(17節)。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました(18節)。しかし、幼子(おさなご)の母マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らせました(19節)。

羊飼いたちは見聞きしたことが天使の話した通りだったのを喜んだだけではありません。幼子の前にひざまずいて礼拝し、神の栄光を讃え、賛美しながら帰って行きました(20節)。最初に「この幼子こそ救い主であると証しした」のは当時の社会の底辺にいた羊飼いたちでした。彼らに一番初めに救い主の誕生が知らされたのは、主なる神がすべての人を心に留めておられることのしるしです。

お名前の秘密

幼子は八日目に「イエス」と名づけられました。この名前は天使がマリアに告げた名前です。ルカ1章31節に「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と天使がマリアに言ったことが記されています。

少し名前の由来をお話ししますと、イエスはギリシア語では「イエ―スース」と発音します。この名前はヘブライ語の「イェホーシュア」であり、当時の庶民が話していたアラム語では「イエシューア」でした。ギリシア語の「イエ―スース」に近い発音ですね。ちなみに出エジプト記やヨシュア記に出てくるヌンの子ヨシュアはヘブライ語の「イェホーシュア」のことです。翻訳の際に日本語で発音しやすい「ヨシュア」となりました。英語ではジョシュア、ドイツ語では「ヨーズア」、ラテン語系の言葉では「ホセ」と呼ばれています。

この語源はヘブライ語の「イャーシャ」という動詞で、「彼は救う」という意味です。つまり「イエス」という名前に「救い主」という意味が含まれています。多くの人が「イエス」と名づけられていたとしても、天使が告げた名前だということにこの幼子の特別な存在が表されています。

マリアに告げた天使の言葉を言い換えると「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子を『救い主』と名付けなさい。」ということになります。ですから「その子は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」という、まことの王となられ、全地を治められるのです。

神の民を祝福し続ける主

民数記6章22節から27節にはモーセを通して主なる神がイスラエルの民を祝した言葉が記されています。新共同訳では24節から26節は祈りの言葉として訳されていますが、原典ではこの箇所は神の約束です。

神は「祝福」し、「守り」、「照らし」、「恵みを与え」、「御顔を向け」、「平安を与える」とエジプトから脱出して荒れ野の旅を続ける神の民に約束され、そのことをモーセに告げさせたのです。しかもこの約束は「確かに祝福する」と言った具合に強調されています。そしてこの約束はすでに終わってしまったというものではなく、続いています。原典の表現からこのことが分かります。ただしこれには条件が付けられています。それは今日の私たち向けに表現を変えて言うと「あなた方がわたしの名を自分たちの上に置くとき、わたしはあなた方を祝福する」(民6:27)というものです。この祝福は24節から26節のすべてを含んでいます。この条件は公平なものです。なぜならば、私たちが自分たちの傲慢で神をないがしろにするならば私たちは神の祝福を受取り損ねてしまいます。私たちが神に近づくことが必要なのです。

愛するお方のところへ

皆さんはジ・アルフィーという3人組のロックバンドをご存知でしょうか。デビューから50年間現役で活動を続け、70歳を過ぎても素晴らしい演奏を聞かせてくれています。こんなに長い間、メンバーが変わらずに第一線で活躍しているグループは珍しいです。このアルフィーの曲に「星空のディスタンス」という曲があります。この歌詞に「ファイブ・ハンドレット・マイルス、君に遠すぎて、会えない辛さ、あぁ。耳をかすめるのは君の声か。泣いている叫んでいる。想いはつのる。」というものがあります。愛する人に会いたい気持ちや切なさが良く表現されていると思います。

先ほど「神に近づく」と申し上げました。神を愛しているならば近づきたいと思うのは、この歌詞の思いと同じではないかと思います。羊飼いたちは救い主イエス様に出会いました。その時イエス様は彼らに平安をお与えになったと思います。羊飼いたちはイエス様が好きになって、イエス様のところに行きたいと思ったはずです。その思いはイエス様を愛するという思いでありましょう。

信徒にとって主日礼拝に集うのは義務であります。しかしながら義務だから礼拝に集うのではありません。復活のイエス様に会いたいという思いで礼拝に集うのではないでしょうか。私はそう思います。

イエス様は今も生きて私たちを祝福し、守り、私たちの顔を輝かせ、恵みを与え、私たちに顔を向けてくださり、平安を与えてくださいます。この救い主イエス様に会いたい、礼拝したいから、私たちは主日礼拝に集うのです。

新しく始まる2025年も主の祝福が豊かにあることを信じ。感謝して日々を過ごしたいと思います。