2025年1月5日礼拝説教「あなたの恵み」

聖書 エレミヤ書31章10~14節、ヨハネによる福音書1章14~18節

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ1:16)

説教(神の御言葉の宣べ伝え)

2025年最初の礼拝に向けて

主の年2025年が始まりました。クリスマスの期間は明日1月6日までですので、クリスマス期間中に新しい年が始まるというのは二重の喜びです。今年も主を讃え、御言葉に聞いて御国への道を共に進んでいきたいと思います。

新しい年を迎えましたが世界や日本の状況は決して楽観的ではありません。ウクライナではロシアとの戦争が続き、中東のパレスチナではイスラエルによる攻撃でほとんどの住民が死の恐怖にさらされています。昨年のノーベル平和賞を受賞した被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は核廃絶を訴え続けています。世界には人間を何度も全滅させることができるほどの核爆弾があり、人間はいつそれが使われるか分からない恐怖の下に生きなければなりません。ミャンマーでは人権侵害が続いていますし、能登半島では地震と豪雨災害の復旧が進んでいません。力の支配が続いていて弱い人々が苦しんでいます。主に信頼して生きることが難しく思えてくるのではないかと思います。

神は私たちを守る恵みと真理のお方

しかし主なる神は聖書の御言葉を通して私たちに語りかけ、導いてくださいます。今年最初の礼拝で与えられた御言葉は、「救い主が私たちを守る」というエレミヤの預言と「救い主が恵みと真理としてこの世に現れた。そのお方はイエス様である」という福音書記者ヨハネの証しです。テレビやインターネットから流れてくる情報とは全く違う御言葉です。この御言葉は信仰者だけでなく礼拝に集うすべての人に生きる勇気と力を与えてくれます。

先ほどエレミヤ書が読まれました。その言葉を黙想し今日ここに集まった私たちへの言葉として大胆に言い換えてみます。

31章10節の言葉はこのようになります。「各地にいる主の民よ、主の言葉を聞いて遠くの人々にまで告げ知らせなさい。民を散らしたお方はその民を確かに集めて羊飼いのように守り続ける」

エレミヤを通して主は私たち礼拝に集う者に「福音を告げ知らせなさい」と呼びかけます。イエス様はガリラヤから始めてユダヤ各地を巡って福音を伝えました。このことは福音書に記されています。またイエス様が天に上られてからはキリスト者たちは各地に散らされて福音を伝えました。そしてそれを聞いた人々がキリスト者となり各地に教会ができました。歴史書に記される出来事は戦いや権力闘争ですが、キリストの教えはまるで細胞分裂のように静かに気づかれることなくこの世界に広がっていきました。私たちもまたここに集まり、御言葉を聞いて主を賛美することでキリストの教えを伝えています。

12節はこのようになります。「主の民は礼拝に来て、聖所(礼拝堂)で確かに喜び歌い続ける。恵みが賛美と祈りと悔いる心に流れ込み続ける。その魂は楽園のように潤うだろう。そして主はもはや衰えを加えない」

まるで、きょうのこの礼拝が預言されていたように思えます。現代の礼拝では穀物、酒、オリーブ油、羊、牛といった献げ物を献げることはありませんが、賛美と祈りと悔いる心をささげています。詩編51編19節には「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」という賛美が記されているように主は私たちの悔いる心を喜ばれます。賛美や祈りや悔いる心に恵みが流れ込んでくるのです。そのことによって私たちの魂は潤い、衰えることはありません。礼拝が終わって教会堂を出ていく時、私たちは力と喜びに包まれています。

13節 主は嘆きを喜びに変えて、慰めてくださいます。悲しみに代えて喜び祝わてくださいます。

礼拝で主を讃え、御言葉を聞くことで、私たちは嘆きや悲しみを主に委ね、喜びを受けることができます。これは礼拝に参加している皆さんが感じていることだと思います。

14節 私は牧師たちの魂を確かに潤し続ける。私の民は私の恵みで満たされる。 主のお告げ。

主は牧師を養ってくださいます。そのことによって牧師は神の言葉を語る勇気を得るのです。神の言葉を取り次ぐということは人間業ではありません。それを何とか言葉にして伝えたいという思いを持っていますが、その思いを主は支えてくださり、勇気を与えてくださいます。このようにして神の民は恵みで満たされます。「私の民は私の恵みで満たされる」。これが主のお告げです。

創世記のヤコブ物語が神の平安を証しする

しかしなぜエレミヤはこんな楽天的な言葉を私たちに語るのでしょうか。それを確認するために11節に聞いてまいりたいと思います。「なぜなら主はヤコブを救い、強いものの手から救った。」と書かれています。

ヤコブという人がいました(創世記32:23-33)。ヤコブには兄エサウがいました。そしてヤコブはエサウに殺されるという恐怖をずっと抱えていました。なぜかというと、当時は長男が家督を相続するという形でしたが、ヤコブはエサウの長子の権利を奪い取ったのです。「ヤコブは何て悪い奴だ」と思うと思うのですが、実は神は規則に書かれている通りにするのではなく人を自由に選ぶお方だということを示しています。「長子だから家督を継ぐ」という傲慢な状態では家督は継げないということを示したのです。ところがエサウは怒ってヤコブを殺そうとしました。それでヤコブは逃げていきました。長い間隠れていて、その間に妻子に恵まれたのですが再び父の許に戻るようにということを示されて戻ることになりました。その時にもエサウ兄さんから殺されるのではないかという恐怖を持っていました。殺されないようにと事前にいろんな贈り物をエサウに送ったのですが、どれだけのことをしてもその恐怖は消えませんでした。ヤコブはその恐怖のために打ち沈んでいました。

そんなある夜、神さまの方からヤコブに近づきヤコブと夜明けまで格闘しました。ヤコブは神に祝福を願い、そして神はヤコブを祝福しました。このことによってヤコブはようやく平安を得ました。

さて、このヤコブは確かに兄エサウから歓迎を受けることになったわけですが、この歓迎を受けることになったことが祝福なのではありません。ヤコブの出来事が教えるものは何かといえば、ヤコブは死の恐怖から解き放たれたということです。兄エサウが自分をどうするかということはヤコブにとって関係なくなってしまったのです。

主なる神は生と死を支配しておられるお方です。そして、死ぬことと死の恐怖とは別物なのです。死ぬことは人間に定められています(ヘブル9:27)。これは肉体的に物理的に死ぬことです。もう一つの死の恐怖は人間につきまとっています。私の孫は「おじいちゃん、人間は死ぬの」と聞きます。まだ小さいのですが死というものを知っているし、何か恐れのように感じています。死の恐怖を感じるのは年齢に関係ありません。死の恐れは私たちの力では拭い去ることができない。ただ神に信頼することによって拭い去られるのです。
主に信頼するというのは言葉を変えれば信仰を得るということです。旧約聖書にも新約聖書にも「安心して行きなさい」という言葉が書かれています(列王下5:19、マルコ5:34、ルカ7:50、ルカ8:48、使徒16:36)。これが私たちに与えられている言葉です。死の恐怖ではなく平安のうちに日々を過ごすことができます。

福音書記者ヨハネの証し

ヨハネによる福音書1章14~18節には、世が造られる前に言葉(ロゴス)が存在しておられたという神からの啓示が示されています。創世記1章には「光あれ」と言って光があったというように言葉によってできたことが記されています。その言葉が肉(人間)となったのです。ヨハネは栄光を見ました。その栄光とは言葉が父なる神の独り子であることによる恵みと真実です。

いまだかつて神を見た者はいません。人は神を見ることができないから神の存在を疑うのです。旧約時代には神は預言者を通して語られましたが、人は預言者の言葉を聞かず神の御言葉を蔑ろにしました。御子イエス様が父なる神を示し、完全な贖い(罪の赦し)を成し遂げられました。私たちは「かくあるべし」という生き方をするのではなく愛のもとに生きる生き方をしていくのです。人を愛し神を愛する。その愛の交わりの中に私たちの本当の生・いのちがあります。

恵みはすでに備えられている

福音書記者ヨハネは人となられたイエス様が父なる神と共に世の造られる前から存在していたお方であることの啓示を受けそれを証ししました。この証しをどう受け取るかは私たちに委ねられています。それを真理と受け止めるならば、イエス様は私たちを救う救い主であるということを覚え、この世はいろいろと大変な状況ですが、この世は終わりの日に贖われることを信じることができます。一方で、それをあざ笑い受け入れないならば、今、世界で起きている悲惨なことを見て人間に愛想をつかしてこの世の滅びを感じて、無気力になったり、絶望したり、刹那主義になってしまいます。それは生きるということではありません。ただ日々を送っているだけです。主なる神はその選びに応じて私たちに報いをお与えになります。

福音書記者ヨハネの証しを真理と信じて多くの人たちが奉仕しています。名前が出ない人の方が多いのですが、敢えて名前を挙げるならば、中村哲医師、マザー・テレサ、奥田知志さん、三浦綾子さん、星野富弘さん。そして土気あすみが丘教会の礼拝に集う皆さんです。

あなたの恵みはすでに備えられています。ただ主イエス・キリストを見上げ、救い主はあなたを守ること、救い主は恵みと真理のお方であることを受け入れれば良いのです。

2025年も主に導かれ、守られながら、御国への旅路を一緒に歩んでまいりましょう。