「最初の弟子たち」
列王記上19:19~21
ヨハネによる福音書1:35~42
先週25日木曜日は、イースターから数えて40日目。主の昇天日でした。
イエス・キリストは、復活されて後、40日に亘って弟子たちに復活の姿を顕され、さまざまなことを教えられ、弟子たちの見ている前で、そのままの姿で天に昇って行かれ、雲に覆われて弟子たちの目には見えなくなりました。
今、イエス・キリストは天の神の右の座=神のご支配の座に就いておられます。今、私たちはこの肉眼で、イエス様を「見る」ことは出来ません。
しかし今私たちには、この神の言葉なる聖書・御言葉が与えられています。聖書に於ける言葉とは、イエス・キリストを表し、教会は神の言葉・イエス・キリストを語り伝えます。先週はマルチン・ルターの「万人祭司」のことをお話しいたしましたが、主に召され主の祭司とされている私たち、既に御言葉を聞いたおひとりおひとりも、出て行って、イエス・キリストを宣べ伝えたならば、聖書の御言葉は生きており、私たちの語り口がたとえ足りないものであろうとも、勇気を持って語る時、神はその業を祝してくださり、私たちの業を小さな種として播いて下さり、それを「聞」いて、心に留められる人が起こされるに違いありません。実を結ぶことが先であろうと。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)とは、使徒パウロの言葉です。
今日お読みした箇所で、洗礼者ヨハネは、弟子のふたりと共におりました。そして、歩いておられるイエス様を見つめて、「見よ、神の小羊だ」と申しました。その弟子たちは、そのヨハネの言葉、「目の前にいるイエスこそが神の小羊だ」という、イエス様を救い主=キリストと証言する洗礼者ヨハネの言葉を「聞いて」イエス様に従いました。「聞く」ことによって、この弟子たちは、新しい歩みが始まったのです。
前回のヨハネ福音書講解では、ヨハネによる福音書は、「見る」という言葉を独特な意味合いを持って用いているということ、「見る」ことは信仰に繋がり、ヨハネ福音書が「見る」と言う時、その奥にある意味は、神の栄光を「見る」ことに繋がって行くということを申し上げました。
「聞く」ことと「見る」こと。これらは、私たちの信仰にとって、重要な事柄であると言えましょう。
そして今日お読みした個所は短いですが、「見る」という言葉が5回使われています。しかしながら、一言で「見る」と言っても、新約聖書の原文であるギリシア語では色々な言い方があるようで、今日の所だけでも、「見る」ということに対し、5つの違う言葉が使われています。使われている5つの個所、それぞれ使われているギリシア語が違うのです。
今日お読みしたはじめ、35節は「その翌日」という言葉から始まりました。洗礼者ヨハネの「わたしはメシアではない」という証が第一日目、ヨハネが「イエス様を見」て、「神の小羊」と証しし、さらに、イエス様の洗礼の時に聖霊が降ったことを証ししたのが第二日目。そして今日の個所は、第三の日ということになります。これらのすべての日は、イエス様の宣教が始まるまでの備えの期間と言えましょう。
「見よ、神の小羊」と、自分の弟子たちに語った洗礼者ヨハネ。この「見よ」から始まる証言は、「自分は救い主ではない」ということを語る言葉であり、また自分から注意を他に向けさせる言葉でもあります。ヨハネが弟子たちにイエスさまのことについて語ることは、自分は退くことを意味し、弟子たちが自分のもとを去り、新しいまことの教師のもとに移っていくことを促しているのと同じです。
人間にとって、自分を自分自身よりも大きく見せたり、また人から優れた存在だと思われることは心地よい、人間の欲望の一つでありましょう。また、自分の一度得た名声のようなものがいつしか他の人に移って行ったり、自分の存在が小さくされる時、人は心に忸怩たる怒りのようなものを持ってしまったりするものですが、ヨハネの中にはそれは全く無いようです。それは、洗礼者ヨハネが、神から愛された者として、自分の分に応じた恵みと役割を与えられていることをはっきりと認め、自分のすべてをただ神に栄光を帰しているから出来たことでありましょう。
この二人のヨハネの弟子だった人のひとりは、シモン・ペトロの兄弟アンデレでありました。
マタイ、マルコでは、シモン・ペトロと兄のアンデレが、ガリラヤ湖で漁をしている時に、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、二人はすぐに網を捨てて従ったと記されていますが、ヨハネ福音書が理解して記していることは随分違っています。しかし、アンデレ、そしてアンデレに「メシアに出会った」という言葉を聞いて従ったペトロのこのふたりが最初のイエス様のお弟子であったこと、そして彼らは「直ぐに従った」ということは、一致しています。
洗礼者ヨハネのふたりの弟子たちは、「見よ、神の小羊だ」という洗礼者ヨハネの言葉を「聞いて」、イエス様に従いました。「従った」という言葉は、具体的には、後について歩き出したという意味でありましょう。イエス様は、ついて歩くふたりの方を振り返り、彼らがうしろをついて歩いて来ているのを「見て」、そして、ふたりに問われました。「何を求めているのか」と。
先に、今日の箇所で「見る」という言葉が5回使われているけれど、ギリシア語ではそれぞれ別の言葉が書かれているということを申し上げました。このイエス様が弟子たちが「従ってくるのを見た」という、この「見た」は、「気づく」「観察する」という意味があり、さらに「訪ねる」という意味もあるようです。見ている対象を訪ねる、近づいていくという、意味合いのある「見る」です。
そのように、イエス様は弟子たちの方に振り返り、「見て」言われました。「何を求めているのか」。これがイエス様の、弟子となる人に対しての最初の問い掛けでした。
私たちは今、ここに集っています。それぞれ、時を得て、主の教会に集うようになりました。その初め、それぞれに求めるものがあって集われたはずです。もしかしたら言葉には出来ないうめきのようなものを携えて、教会に来られた方もおられるかもしれません。ここは主イエス・キリストの赦しのあるところです。主の十字架の下、主が私たちの罪の身代わりとなられた―犠牲となられた―ことを表す聖餐卓を囲み、今礼拝をしています。
今、私たちは世を生きておられるイエス様を、この肉眼で「見る」ことは出来ませんが、それぞれイエス様のことを、どこかで「聞いて」教会に来られたに違いありません。そのような私たちひとりひとりに、イエス様はまず問い掛けておられるのではないでしょうか。「何を求めているのか」と。
私たちが今、一番求めているものは何でしょうか。神を求めると言いつつ、所謂「御利益」、自分の人生への見返りのようなものを一番に求めてはいないでしょうか。信じることによっての「見返り」です。また、その裏返しのように、求めるものが与えられないと不満を持ったりはしていないでしょうか。
キリスト教信仰に於いて、信仰の恵みとして、すべての必要が満たされる、ということは確かに起こり得ます。私たちは、イエス様から教えていただいた祈り、「主の祈り」を祈りますが、「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」と祈っています。私たちの生活は、この祈りによって支えられているとすら思える。主は、祈る私たちを省み、憐みによって主が日々すべての必要を与えてくださっているということを、信仰を持って、忍耐強く歩む時に気づかれることでしょう。
まず、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)とイエス様は仰いました。
私たちがまず、求めるべきものは、神の国と神の義。しかし、人間の心はさまざまな願望や欲望に満ちていて、なかなか「神の国と神の義を求める」ということに到達出来ないものです。
しかし、神は、人間がご自身に到達するまで、暗中模索の中に人間を置かれるようなことはなさいません。私たちの求めがたとえはじめはどのようなものであろうと、イエス様の後を歩こうとする私たちに、イエス様は振り向かれ、見て、自ら私たちに近寄ってくださいます。
「何を求めているのか」というイエス様の質問に対し、二人は直接には答えません。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ね返します。
ここで「泊まる」と訳されている語は、この翻訳のとおり「泊まる」という意味もありますし、「留まる」とも訳せます。「留まる」場所、また生きる位置を表す言葉でもあり、イエス様がヨハネ福音書のずっと先15章に於いて、「わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られた言葉の、「つながる」と訳されている言葉と同じ言葉です。
「どこの泊まっておられるのですか」というこの問いは、彼らにとってはイエス様に宿泊場所、自分たちが後ろをついて行き、自分たちも泊まる場所を尋ねた言葉ではありましたが、単に泊まるということだけではなく、イエス様の留まっておられる場所、本質を問う言葉でもありました。「泊まる」ということは、イエス様と繋がるということであり、それは主イエスの愛の内に留まることであり、神と共にある命のうちに入れられて生きるということです。
イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。彼らはついて行って、どこにイエス様が泊まっておられるかを「見」て、イエス様のおられる場所に泊まりました。二人は、イエス様のおられる場所に泊まり、イエス様のおられる場所に「留まる」ことにより、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と証しした、イエス様がどのようなお方であるかを、身をもって知ったのです。このお方こそ、油注がれたメシア、救い主であると。
イエス様との出会いの体験は、自分がイエス様を知ることで終わるものではありません。彼らはその喜びを分かち合うために、外に出て行きます。
アンデレはまず、自分の兄弟シモン・ペトロに会って、「わたしたちはメシアに出会った」と語りました。シモン・ペトロはその言葉を聞いて、アンデレと共にイエス様のもとに行きました。
イエス様は、シモン・ペトロを見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ=岩と呼ぶことにする」と言われました。
「岩」は、聖書に於いて救いを顕す言葉です。詩編には、「救いの岩」という言葉が随所に出てきます。また、堅固な土台として岩を語る場合もあります。さらに「岩」にはもうひとつ意味があります。それは、「打ち砕かれる岩」という意味です。頑固で容易には悔い改めない岩、頑固な人間を指す言葉でもあります。エレミヤ書5:3には、「彼らを打たれても彼らは痛みを覚えず、彼らを打ちのめされても彼らは懲らしめを受け入れず、その顔を岩よりも固くして立ち帰ることを拒みました」という御言葉があるとおりです。
聖書に於いて、名前はその人の有り様を表します。そして名付けられるということは、その人の人生が新しい歩みの中に入れられることを意味致します。ペトロはおっちょこちょいで、言動は勇み足のようなことが多く、欠けの多い人であることが、聖書の随所から見てとれます。ペトロはこの後、弟子の筆頭となっていきますが、弟子の筆頭となるペトロは、もしかしたら頑固な石頭でもあったのかもしれません。そのようなペトロが、最初の弟子であり、弟子の筆頭です。人は誰しも、それぞれ頑固さを持っていて、神の御前に打ち砕かれなければ、罪の無い神のもとに留まり生きることは出来ません。そのような頑固で、悔い改めなければならない者たちが、砕かれ、変えられ、堅固な岩となり、さらに救いを告げ知らせる者となってゆく。ケファ=岩という、イエス様がペトロにつけた呼び名は、そのような私たちすべてに当てはまる名前であるのかも知れません。
イエス様は、イエス様の後をついて行こうとする私たちを、振り返り、「見て」私たちに近寄って下さいます。ふたりの弟子は、イエス様の留まっておられることを「見て」、信じました。
しかし、今、私たちはイエス様を直接肉の目で「見る」ことは出来ません。「見る」こと、「聞く」こと。信仰にとって大切な要素であることを申し上げましたが直接に「見る」ことは出来ません。
先日、K兄のお見舞いに伺いました。冬の間は、病院がインフルエンザなどの感染症を防ぐために、家族親族以外の面会は許されず、5月になってようやく伺うことが適いました。K兄は、幼少の頃、はしかを患われたことがきっかけで、視力を失われました。「目が見えない」ということは、本当にどれほど悲しく、ご苦労が多いことであられたかと頭が下がります。私は、この3年間、K兄と家庭集会、また入院中のお見舞いを通して、お交わりをさせていただいておりますが、お会いする度に、「この方は、イエス様を見ておられる」ということを感じます。目の見える私などは、さまざまな、この肉の眼に映るさまざまなことに思い煩わされていますが、ベッドの上で、イエス様をひたすら求め、イエス様を見上げておられることを、不思議なほどにはっきりと感じるのです。そして、イエス様も、絶えずK兄に御目を注いでおられる。
信仰の目というのは、肉の眼で見える目ではないのかもしれません。むしろ、私たちの目は、世の罪を映しだす目なのかもしれないとも思ったりします。人間は、目に見えることで多くのことを無意識に判断しますから。
私たちは、「何を求めているのか」と問われるイエス様に対し、心の目でまっすぐに主を見上げ、「イエス様、あなたです」と言えるような信仰を持ちたいと願います。そして、イエス様のもとに留まること、それをすべての私たちの起点、立ち位置として、イエス様ご自身であられる御言葉を盾として、世を生き抜く者でありたい。そのことにこそ、私たちには、まことの祝福の道が備えられるのだということを、信じています。