聖書 イザヤ書43章4~7節、ルカによる福音書3章21~22節
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
説教(み言葉の宣べ伝え)
イエス様の洗礼の祝日
先日の1月6日月曜日は教会の暦で東方の三博士がベツレヘムのイエス様を訪問したことを記念する「公現日」、すなわち「公けに現れた日」でした。これはイエス様の誕生をこの世が知った日の記念として祝われています。この日を以てクリスマス期間は終わりました。庭のクリスマスイルミネーションや会堂内のクリスマスの飾りが取り外されました。
そして今日は「イエス様の洗礼の祝日」とされています。聖書学者はイエス様の洗礼を十字架刑と共に歴史的に信憑性が高い重要な出来事と考えています。どちらの出来事にも大勢の人々がいて、その人たちの多くの証言があったからです。その証言は口頭で伝えられました。使徒言行録に出てくるペトロたちは「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4:20)と証ししました。偉大な伝道者パウロも「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」(Ⅰコリ15:3)と手紙に書き記しました。イエス様の地上での歩みにおける言葉や出来事は断片的に記録され、そして後に聖書記者たちが編集して福音書が編纂されました。
イエス様の洗礼の意味
先ほど私たちが耳にしたルカによる福音書3章21節にはイエス様が洗礼を受けたことが書かれています。ルカはイエス様が誰から洗礼を受けたかを書いていませんが、他の福音書によればバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが記されています。このヨハネの洗礼は「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(ルカ3:3)でした。イエス様は罪を持たないお方です。たとえばヘブル人への手紙4章15節には「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と証しされています。「罪を犯さなかったが」というのは「罪から離れているお方」、すなわち「聖い存在」ということです。そのイエス様が洗礼をお受けになった理由は罪の赦しを必要とする人間と同じになるためでした。イザヤ書53章12節には「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」という預言が記されています。このようにイエス様は罪を持たないのもかかわらず、私たちと同じになるために洗礼をお受けになられたのです。
イエス様の洗礼に現れたしるし
イエス様はいろいろな場所でいろいろな状況において祈っておられます。人里離れた所で祈ることが多かったことがルカ福音書に記されています。イエス様の祈る姿で強烈な印象を与えるのはイエス様が捕らえられる夜にオリーブ山で祈られた姿ではないかと思います。これはルカ福音書の22章に記されています。イエス様は弟子たちから離れてひざまずいてこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。この祈りはご自分の使命の厳しさを私たちに示しています。イエス様は苦しみもだえながら切に祈られました。その様子は「汗が血の滴るように地面に落ちた」というほどの苦しい祈りでありました。
そしてイエス様は洗礼を受けられた後に祈られました。この祈りにはこれから始まる宣教の公生涯の困難に耐えられるようにという願いと地上での歩みの最後に受ける十字架刑のことも含まれていたのではないかと思われます。
その時に、天が開け、聖霊が鳩のような形をとってイエス様の上に降り、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」という声が聞こえました。
天を開くのは父なる神さま以外にはおられません。イエス様のおられるところで天と地がつながったのです。この光景は創世記28章の「天のはしご」を思い出させます。ヤコブは伯父ラバンのところに行く途中の寂しい荒れ野で野宿をしたときに、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしている夢を見ました。ヤコブは眠りから覚めて「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」と言いました。このときはヤコブの夢に天の門が現れたのですが、イエス様の洗礼の時には人々が見ている中で天が開いたのです。人々はこの出来事に驚き、恐れたことでしょう。
そして聖霊が鳩のような形をしてイエス様に降って来られました。通常、聖霊の神は私たちの目で見ることはできませんが、この時はその場に居合わせた人々は聖霊がイエス様に降るのを目で見ることができました。これも驚愕の出来事でした。イエス様が特別な存在、天的な存在であることが多くの人々の目に見えたのです。聖霊が見える形で現れたのは聖霊降臨日に弟子たちの上にととまった出来事としても記されています。これは使徒言行録2章にあります。このときは炎のような舌が分かれ分かれに現れたと記されています。
そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。この声はイエス様の父なる神さまの声です。イザヤ書42章1節には「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」という預言が書かれていますが、この預言はイエス様の洗礼の時に成就したのです。この預言は「苦難のしもべ」と呼ばれるイザヤの預言の中に含まれています。すなわちイエス様の洗礼には父なる神のしもべとしての従順と苦しみが暗示されています。
私たちを愛してくださる神さま
先ほど私たちが聞いたイザヤ書43章は神の民イスラエルの苦しみからの救いを預言している箇所です。神の民は国が滅びて人々が散り散りになる苦難を受けるのですが、神さまは苦難の中にいる民に「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」と告げるのです。なぜ神さまから離れ罪を犯した民を神は見捨てずに、「あなたは価高い。あなたは貴い。」と言われ、「あなたを愛していると言われるのか」ですが、神はこの民の最初の祖先であるアブラハムとの約束をいつまでも守り通すお方だからです。私たち人間は何代も世代を経るため、知識は文字や記憶装置などによって継承できても、神との約束は継承していくことができません。神との約束を継承するものとして私たちに聖書が与えられているのですが、それを適切に伝えていく努力をしなければ人間は神との約束を忘れてしまいます。その典型的な事例が旧約聖書の列王記や歴代誌に記されています。この書物には神から離反する世代と神に立ち帰る世代が繰り返されていることが書かれています。こんな不完全な人間ですが、神さまは人間が神さまとの約束を忘れて自分勝手に生きて悪が広がっていても、約束を守って導いていくお方なのです。その約束による人間の救いの業がイエス様の受肉であり、洗礼から始まり十字架へと続くイエス様の公生涯なのです。
私たちの苦しみを担い私たちを贖われたイエス様
イエス様は洗礼によって私たちと同じになってくださいました。人間的な痛み、多くの人から疎外される苦しみ、食べものがない苦しみ、死の恐怖を体験され、その上で人間の罪を背負って罪人として死ぬことにより私たちを救ってくださいました。
このお方を信じるならば人は豊かに生きることができます。イエス様がいつも祈られたように私たちも父なる神と主イエス・キリストに祈りつつ日々を過ごしたいと思います。