「約束の聖霊」(2017年6月4日礼拝説教)

ヨエル書2:23~3:2
使徒言行録2:1~11

 こうしてペンテコステの礼拝を迎えられましたことを心から嬉しく、主を賛美いたします。
待降節から始まるイエス・キリストのご生涯を辿る「主の半年」と言われる時を過ごして参りましたが、ペンテコステ・聖霊降臨の出来事は、イエス・キリストの約束された出来事のひとつの大きな区切りの時です。
主イエスは十字架に架けられ、苦しみ死なれ、陰府に下られた後、復活されました。復活の姿を弟子たちに40日にわたって顕され、さまざまなことを教えられ、弟子たちの見ている前で、そのままの姿で天に昇って行かれ、雲に覆われて見えなくなったと、使徒言行録1章は語っています。それから、10日目、主のご復活から50日目の日に、天におられる父なる神と、神の右の座に座し給うたイエス・キリストのもとから、弟子たちのもとに、主なる神、イエス・キリストのもとから、神の霊であられる聖霊が降り、弟子たちは力を受け、十字架と復活のイエス・キリストを宣べ伝える、主の教会が誕生していったのです。
地上の宣教の御業が、イエス様ご自身から、教会に委ねられる時代へと入っていった、それがペンテコステの出来事です。
ペンテコステとは、50という意味のギリシア語で、今日はイースターから数えて50日目の日となります。
また、イエス様の十字架からペンテコステまでの出来事は、ユダヤ教の祭りとも重ね合わせられています。イエス様の十字架は、ユダヤ教の三大祭りのひとつ、モーセの出エジプトを記念する過越祭の時でした。ユダヤ教では、過越祭から数えて50日目は、五旬祭・収穫祭とも言われる、麦の収穫を祝う祭りの日です。またユダヤ人はこの日を、モーセがシナイ山で律法を与えられた日として記念して祝っており、各地に散らばっているユダヤ人たちは、エルサレムを巡礼する日となっていました。
お読みした使徒言行録2:5で「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集ってきた」とありますが、この人々は、五旬祭の巡礼のためにエルサレムに帰ってきた離散したユダヤ人たちでした。
そのようなユダヤの祭の日に、聖霊は降りました。

 イエス様は、ヨハネによる福音書14章で約束をされました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」(16~17節)「わたしはあなたがたをみなしごにしておかない」(18節)「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻ってくる』と言ったのをあなたがたは聞いた」(28節)と。
 さらに16章では「わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」(7節)「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)とも語っておられます。これらは、最後の晩餐の席で、イエス様が弟子たちに約束された言葉です。
「真理の霊」「弁護者」、これらは、聖霊を表す言葉です。イエス様が弟子たちのもとから去っていかなければ、真理の霊、弁護者は来ないと、イエス様は告げておられます。そして、そのお方が来たならば、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」、さらに「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻ってくる」とイエス様は語られました。
 真理の霊、弁護者なる聖霊とは、イエス・キリスト、そのお方であられ、イエス様は、今聖霊として、イエス・キリストを信じる私たちひとりひとりと永遠に一緒に居てくださるのです。

 さて、イエス様の約束された聖霊が降された時のことが書かれているのが、今日お読みした使徒言行録2章です。
 弟子たちはイエス様の十字架を通して、自分の弱さと罪を痛いほど知りました。イエス様が逮捕された時、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げました。ペトロは、イエス様が裁判を受けているカヤパの官邸までこっそりついていきましたが、そこで「お前はイエスと一緒にいた」と言われ、三度「違う」と否定し、逃げました。そして、自分の罪に気づき、大泣きに泣いたのです。
 そんな弱さと罪を嫌というほど思い知らされた失意の弟子たちの只中に、復活のキリストは来られ、平和を告げ、さまざまな教えをなされました。弟子たちは、自分たちは主を裏切ったけれど、イエス様に赦されたことを、主の復活を通して知ったに違いありません。
主は天に昇られる時、「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、世の果てに至るまで、わたしの証人となる」という言葉を残されました。
すべてのことを見届けた弟子たちは、その後、エルサレムに戻り、泊まっていた家の上の部屋にあがり、心を合わせ、ひとつになって、イエス様が天に昇られてから10日間、弟子たちはイエス様の約束された聖霊を求めて、ひたすら祈っていたのです。
 ルカによる福音書11章に「求めなさい。そうすれば与えられる」という御言葉があります。何を求めたら与えられるのか、この文脈の最後にははっきりと語られています。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。求めることで、聖霊は与えられるというのです。

 五旬祭のその日も、一同はひとつになって祈っておりました。
 すると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、その音が家中に響きました。どんな音だったのでしょう。ごーっと唸るような音だったのでしょうか。家中に響いたというのですから、家中が揺れるような風だったのでしょうか。「突然」と語られておりますので、全くの予告もなく、圧倒的な力が突然、弟子たちを襲ったのです。
 さらに、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまったというのです。これはどのような情景なのでしょうか。きっと皆様おひとりおひとり、思い浮べる情景は違うのではないかと思います。それほどに、私たちの常識では諮れない出来事です。
ペンテコステの出来事の聖書の記述というのは、ほかのどの箇所と比べても特殊です。なかなか想像しにくい。ある意味、「不気味」とも言える出来事です。さらに、そこにいた弟子たち一同は、聖霊に満たされ、聖霊の語らせるままに、他の国の言葉で話し出したというのですから。
この他国の言葉を、使徒パウロは「異言」、これは英語ではトング=舌と言われるもので、パウロ自身、「誰よりも多く語れることを感謝します」(一コリント14:18)とまで語っております。

 このことを私たちはどのように捉えたらよいでしょうか。
 私は土気あすみが丘に赴任して、4回目のペンテコステを迎えていますが、実はペンテコステと言えば、日本基督教団の聖書日課でも、毎年この箇所、使徒言行録2章を読むようにと記されているわけですが、敢えて避けてペンテコステの説教を語ってきておりました。それは、私なりにこの箇所を「畏れて」いたからだと思います。
 と申しますのも、私はかつて、この記述と非常に似た経験をしたことがあるからです。なかなか語ることは不思議すぎて躊躇われることでありますが、これは、神からの明確な召命であったと、今はっきり私は認識しておりますので、神の恵みを曖昧に隠すことは無い。あることを曖昧にすることは相応しくないと思え、私自身の証しとして、今日はその経験を語らせていただきたいと思います。
(証し)

 これが、私の最初のペンテコステ。聖霊体験です。聖霊のバプテスマだったのだと思っています。圧倒的な力に襲われ、倒され、畏れおののくしかないような経験でした。それ以降、その体験は全く落ち着いた、自分の中で当たり前の、コントロールの出来る一部分になっていきましたが、そのことに関し、信仰の葛藤が多くありました。今は、このこと関して取り扱いは慎重です。強調し過ぎたり、間違った求め方をしたら、どこかまことの信仰から離れてしまう、そのようなことも人間の弱さの故に起こって来得ると感じます。
 でも、圧倒的な神の力が「ある」ということを否定をしてはいけない。聖書に書いてあることは、本当に「ある」のです。神は人間を遥かに超えたお方です。そして、今思い返しても、あの時のことは、私の人生の中の、最大の恵みであったと認識しています。
 それ以来、私は、聖書の理解が全く変わりました。聖書が分かるようになっていきました。なかなか心にストンと落ちなかった十字架の救いが分かるようになりました。そして、聖書に記されていることは、そのまま信じるに価するということが、まったく単純に、私の中に明確になりました。さらに、他の神々のようなものではなく、イエス・キリストを通らなければ救いはないということが、確かなこととして、理屈でなく、理解出来るようになりました。聖霊は、十字架と復活のイエス・キリストを証しする霊であられるからです。
 そして、今、牧師になり、御言葉の解き明かしを語らせていただいています。

 聖霊降臨の出来事の後、ペトロは立ち上がり、説教をし、その日のうちに3000人が洗礼を受けました。そして、そこからイエス・キリストの教会が始まっていきました。
 弱く、無学で、罪深い弟子たちでしたが、上からの力、聖霊の力を受けて、変えられて行き、死をも厭わず、イエス・キリストを宣べ伝えるようになり、2000年を経た今も、キリスト教信仰は世界中の人々に、世を生き抜く力と知恵、そして愛と希望、永遠に至る命の希望を与え続けています。
 聖霊は、イエス・キリストの霊であり、またイエス・キリストを証しします。聖霊は私たちそれぞれに与えられる神の力です。キリスト教信仰の目指すところは、キリストが再び来られる時、救いの完成の時でありますが、今はその時に至っていない、まだ不完全な世の姿です。この不完全な世に於いて、私たちは神の力、聖霊をひとりひとりが与えられ、生きる力と知恵を与えていただけます。そして、教会は、不完全な世において、イエス・キリストの救いにすべての人を招き入れることを神から委ねられています。
 土気あすみが丘教会が、また連なるおひとりおひとりが、聖霊の力を受けて、世に於いて大胆にキリストを証ししつつ、これからも歩まれますことを祈ります。

 おひとりおひとりが、聖霊を求めた時に、神は喜んで天の扉を開いてくださり、その大いなる豊かさに満たしてくださることでしょう。それぞれ与えられる聖霊の賜物は違います。誰もが異言を語るわけではない、ということをパウロは語っています。
 しかし、必ず求めて与えられる賜物があります。ガラテヤの信徒への手紙5章をお読みいたします。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22)。
 求めましょう。そうすれば与えられます。主は、私たちと共におられます。