聖書 イザヤ書62章1~5節、ヨハネによる福音書2章1-11節
主はなおもエルサレムを「捨てられたところ」と言わないだろう。
そしてその土地をなおも「廃墟」と言わないだろう。
なぜなら主は「私の喜び」と呼ぶだろうから。
そして主はあなたの土地を統治するだろう。(イザヤ書62章4節(私訳))
いつも喜ぶ
先週月曜日の祝日に西千葉教会で千葉県信徒大会が開かれました。千葉県在住のキリスト者が一堂に会する大会になることを願いつつ、今年も日本キリスト教団千葉支区の41教会から180人以上が参加しておこなわれました。土気あすみが丘教会からも7人が参加しました。午前中の講演会では東京神学大学元学長で現在は理事長の近藤勝彦先生が「教会の課題として思うこと―教会生活65年間を感謝して―」と題して講演をおこなってくださり、午後には有志ワーシップチームの賛美演奏とチェロ演奏会がおこなわれ、元気をもらいました。
教会は総じて高齢化が進み教会の勢いが失われている状況だそうですが、土気あすみが丘教会は千葉県全体の教会から見れば多くの人が集まり活気のある教会のひとつです。私は、土気あすみが丘教会は瑞々しい信仰に生きている人たちばかりで教会に活気があると思っています。その瑞々しい信仰を与えてくださっているのは聖書に記されている神の言葉です。総じて勢いが衰えていると言われる教会ですが、近藤勝彦先生は御言葉に養われて祈り「いつも喜ぶ、飛び上がって喜ぶ」強固な信仰を語ってくださいました。「いつも喜ぶ、飛び上がって喜ぶ」ということについて本日与えられた御言葉に耳を傾けたいと思います。
イザヤの預言に聞く
先ほどイザヤ書62章1節から5節が読まれました。ここには異国のバビロンで長い間捕囚になっていた人々がエルサレムに帰還した頃に彼らに与えられた預言の言葉が記されています。人々はようやく戻ったエルサレムを見て茫然自失になってしまいました。神の都シオンと呼ばれていたエルサレムは破壊され廃墟となっていました。そのような中で預言者イザヤは神の約束を語りました。1節づつ聞いてまいりましょう。
62章1節 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で、彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
ここで彼女とは神の都シオンと呼ばれたエルサレムのことです。ギリシア語では地名は女性名詞ですから「彼女」という言葉で表しています。この節を今日の礼拝に集う私たちの言葉に書き直すと次のようになります。
「シオンのために私は黙ってはいない、エルサレムのために私は静かでいつづけない。その義が輝きのように現れるまで、その救い(解放)がたいまつのように燃え上がるまで。」(私訳)
廃墟となったエルサレムが神の義として再び輝き、救いが燃え上がるまで、イザヤは主の言葉を語り続けるというのです。このエルサレムは現代の教会のことでもあります。教会では主の言葉が語り続けられています。ここで義が輝き現れ、救いが燃え上がるのです。
62章2節 諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。
この節も今日の礼拝に集う私たちの言葉に書き直すと次のようになります。
「諸国の民はあなたの義を、すべての王はあなたの栄光を見るであろう。そして彼は主の口が名づける新しい名によってあなたへと確かに呼ばれるであろう。」(私訳)
ここで諸国の民とはキリストの教えを知らない人たちやキリストの教えに反対する人たちです。その人たちや王と呼ばれる指導者たちは主なる神の栄光を仰ぐようになります。打ちひしがれた民は主なる神が名づけた新しい名で主のもとへと呼び出されるようになるとイザヤは告げました。
62章3節 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。
この「あなた」はエルサレムであり、現代では教会とそこに集う人々を指します。教会とそこに集う人々は主の御手の中で栄光を受けるのです。
62章4節
あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく、あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ、あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。
この節も今日の礼拝に集う私たちの言葉として訳すと次のようになります。
「主はなおもエルサレムを「捨てられたところ」と言わないだろう。そしてその土地をなおも「廃墟」と言わないだろう。なぜなら主は「私の喜び」と呼ぶだろうから。そして主はあなたの土地を統治するだろう。」(私訳)
主なる神はエルサレムを廃墟のままにはしておかれません。その場所を「捨てられたところ」とは言いません。主はその場所を「楽しんだところ」と覚えており、「望まれるもの」と呼ばれます。主は再びその土地をご自分の統治とされるのです。このエルサレムを教会と言い換えるならばこれは今日の教会に当てはまる言葉になります。そしてこのことは主イエス様の十字架の贖いによって現実となりました。
62章5節 若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。
この節も今日の礼拝に集う私たちの言葉として訳すと次のようになります。
「なぜなら若者がおとめをめとるように主がエルサレムを娶ったからだ。そして花嫁の上に喜びの花婿が喜ぶように、あなたの上にあなたの神が喜ぶ。」(私訳)
それはちょうど若者がおとめをめとるように、主がその場所を娶り、統治されるからです。そして花婿が花嫁を娶って喜ぶように、主は喜ばれます。
このようにイザヤ書の言葉を今日の状況に照らして聞いてみると、これは私たちに与えられている約束の言葉であることが分かります。主は失われたユダヤ国とその都エルサレム、また神の都シオンを覚えていて、必ずご自分のものとされました。このことは、教会は神に覚えられており、神は教会を必ずご自分のものとしてくださるということです。
主なる神は捕囚の民の「いつまでですか」という嘆きに1節にあるように「それの義が輝きのように現れるまで、それの救い(解放)がたいまつのように燃えるまで。」と答えました。苦難は永遠に続くものではありません。主の時が来れば解放されるのです。
結婚の祝宴でのイエス様のしるし
次に、先ほど読まれたヨハネによる福音書2章1節から11節に聞いてまいりましょう。
この箇所の前、1章35節から51節にはイエス様が弟子たちを呼び集められたことが記されています。そして本日の箇所ではガリラヤ地方のカナで行われた結婚の祝宴でのイエス様が最初に行った奇跡が記されています。この奇跡は喜びの出来事でした。
イエス様は母マリアから祝宴のぶどう酒が不足していることを告げられました。しかしイエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」と言って、ご自分の母の要求をお聞きになりませんでした。
ところがイエス様は給仕たちに清めのための水がめに水を満杯にするようにお命じになりました。それは母マリアが去った後であったと思われます。つまりマリアはこれから起きることを知らなかったということです。しかしマリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っていました。母はイエス様を身ごもった女性としてイエス様の中に奇跡を生む力が潜んでいることを確信しているのです。
私たちに置き換えるならば、私たちがイエス様にお願いをして何かを得ようと望む時には、すべてイエス様に委ね、ひたすらイエス様を見上げ、イエス様の命じる所を行うのでなければ、それを手に入れることはできないということであります。
給仕たちはイエス様のおっしゃる通りに石の水がめ6個に水を満たしました。次にイエス様は召使いたちにその水を器に汲むようにお命じになりました。給仕たちはマリアに言われていたのでその通りにして宴席にいる世話役のところに持っていきました。給仕は世話役にそれを渡して戻ったのだと思います。世話役が器に入っているものを飲むと、何と、それは良いぶどう酒でした。
福音書は水がいつ、どのようにしてぶどう酒になったかには関心が注がれていません。石がめに入れた水は世話役が味見をしたときには良いぶどう酒であったと記しているだけです。
しかもここで注目すべき点はイエス様が奇跡を行ったことは誰も知らないということです。召使たちは水がめに水を満たし、その後にそれを汲んで世話役に持って行っただけで、その水がぶどう酒に変わっていたことは知りません。一方、世話役は召使いたちが運んできたものは元々は水であったことを知りません。
この奇跡の出来事が教えるのは、神のしるしはこのようなものだということです。私たちの日常に神は奇跡を起こしておられます。私たちはそれを知らずに神の恵みをいただいているのです。私たちは主の働きをのすべてを知ることはできませんが、その一端に触れることはできます。
神の臨在のしるし
神は私たちが気がつかないところでもしるしをおこない、試練や窮状をお救いくださいます。苦難は永遠に続くものではありません。主の時が来れば苦難から解放されます。主の約束を持ち続けて人生を歩んでまいりましょう。