2月2日礼拝説教「傲慢を咎める主」

聖書 エレミヤ書 1章7~10節、ルカによる福音書4章16節~23節

見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。
抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。(エレ1:10) 

イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」(ルカ4:23)

神の言葉を黙想する

先週は月曜日から木曜日まで3泊4日で静岡県裾野市にある黙想の家でリトリートに参加しました。リトリートとは日常の生活から離れてグループで深く内省(ないせい)することです。牧師たちが集まり、ひたすら聖書を読み黙想します。普段も平日は聖書を読み牧会や礼拝準備をしているのですが、一人ひとりの信仰を振り返り、何よりも神様のことを思いつつ過ごす機会は貴重です。黙想の家では全員が集まって共同黙想をする時以外は沈黙して過ごします。食事の時もそうです。このようにして主に近づく訓練をして霊性を養うのです。講習会や勉強会とは異なるもので私にとっては年に一度の貴重な機会です。

今回は使徒言行録に聞きながら教会と伝道について黙想しました。使徒言行録には聖霊によって教会が形づくられ、それが世界に広がっていくさまが記されています。日本は現在、どの教会も高齢化や財政問題などの課題を抱えています。しかし使徒言行録が書かれた頃の状況は今の状況よりも困難でした。それでもペトロやパウロたちは聖霊に導かれてイエス様の福音を宣べ伝え、各地に教会が生まれました。そのきっかけはイエス様がこの世界に遣わされたことです。本日はエレミヤ書からエレミヤの召命の出来事とルカによる福音書からイエス様がご自身を明かされた出来事を通して、神さまのメッセージを聞いています。

世界を再創造される主

イエス様がこの世界に遣わされたことは、エレミヤが預言者として召命を受けたこととは違いますが、似ている点があります。そのことを確認したいと思います。

神はエレミヤを生まれる前から預言者としました。そしてエレミヤが青年になった頃にそのことを告げました。しかしエレミヤは神に「私は若者に過ぎません」と言って、自分に与えられた使命を恐れました。

主はエレミヤに言いました。1章7節と8節です。新共同訳では次のように訳されています。

7、8節 「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」

これを原典になるべく忠実に訳すと、長くなるのですが次のようになります。

「あなたは『私は若者です』と言わないだろう。なぜなら私があなたを遣わすすべてのところにあなたは行くからである。そしてあなたは私があなたに確かに命じることをすべて確かに語るからである。彼らの面前で恐れることはない。なぜなら私はあなたと共にあり、あなたを救い出す」。主のお告げ。

原典では主の命令というよりは、エレミヤが自分で決断して主の言葉を受け入れ、主に示されたところに行くことを主がご存知であるように書かれています。「確かに」という言葉も含めて、そのようになるということをエレミヤに告げています。

「彼らの面前で恐れることはない」という言葉は若くして預言者として立つエレミヤに勇気を与えたことでしょう。その理由として主はエレミヤと共にいることと、エレミヤを救い出すことを告げています。そして主はその手をエレミヤの口に触れ「あなたの口にわたしの言葉を授ける。」と言われました。語る言葉は主が示してくださるのです。

イエス様は神の御子ですから恐れはなかったと思います。イエス様はすでに父と共にあることをご存知でした。敵対者たちの前に立っても恐れることはありませんでした。

エレミヤに委ねられた権威は、抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるものでした(10節)。最初の4つの権威は古い世界の破壊を意味し、最後の2つの権威は新しい世界の創造を意味します。主はこの世界を創造し維持しておられますが、神の定められたときに主はこの世界を再創造されるのです。これが何を意味しているかと言えば、ユダ王国がバビロニア国に滅ぼされることであり、その後に再建されるということであり、ユダヤの歴史は70年間の捕囚の後にバビロニア国が滅びてユダヤが再建されたことを記しています。

さらにはこの預言は終わりの日にキリスト・イエス様が再びこの世に来てくださり新しい天と地が創造されることも含まれています。主は私たちにしるしをお示しになり、それを聖書に書きとどめました。私たちの時代も預言に示された主の約束を信じて生きているのです。

傲慢では奇跡を見ることはできない

ルカによる福音書の4章16節からイエス様が故郷のナザレ村の会堂でなさった出来事が記されています。イエス様は安息日に会堂で聖書の朗読をするために立ち上がりました。

会衆はこれから何が始まるだろうかと期待してイエス様を見ています。ナザレに来るまでにイエス様はガリラヤ地方を回って諸会堂で教え皆から尊敬を受けていました(4:14,15)。ですから人々は故郷のここでも何かのしるしを行うのではないかと期待したのです。

21節 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

その時、イエス様が語った言葉は、期待に反した言葉でした。イエス様は自分はメシア、キリストであるとご自分を明らかにされたのです。会衆はイエス様を称賛し続けました。そしてイエス様が語る恵み深い言葉に驚き続けました。

しかし「この人はヨセフの子ではないか。」と言い、自分たちが知っている大工の子で、貧しい家に生まれた子どもだった記憶から離れることができません。人は自分で獲得した知識や経験に縛られています。目の前で恵みの言葉が語られたにもかかわらず、ナザレの人々は主イエスに対する見方を変えることができませんでした。

23節 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」

会衆の期待はここでイエス様が何かの奇跡を行うのではないかということをイエス様は見抜いていました。イエス様は会衆が自分たちの傲慢という病に気づいていないことを示されたのです。ただ病気をいやしたり体の不自由を取り去るところを見てみたいという興味でしかイエス様をみていないことを知っていました。

イエス様をキリストと認めることができないのは、彼らが傲慢であるからです。傲慢とは自分が正しいと信じ行動することだと言えます。幼少期のイエス様を知っているだけに、その人がキリストであると認めることはできないのです。

イエス様の言葉は人々の傲慢を咎めています。へりくだって見たこと耳にしたことを何のフィルターも通さずに素直に受け取るならばイエス様がキリストであることを理解することができたでしょう。イエス様はナザレの人々に奇跡を起こすことはありません。イエス様の言葉を聞いて、それを受け入れることなしに奇跡を見ることはできないのです。

祈りが聞かれないと思うのは祈る側の傲慢が心の中にむくむくと大きくなっているからです。ただひたすらに祈り、祈った後は主にお委ねする。そして祈りの課題をいったんは自分から切り離す。そしてまた聖書を読み祈るならば、祈ることを諦めることはなくなり、祈り続けることができます。イエス様がキリストとして共に祈っていてくださいます。私たちが傲慢であるときに奇跡を見ることはありません。