2月9日礼拝説教「困難に踏み出す」

聖書 ルカによる福音書5章1~11節

イエスはシモンに言われた。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(10,11節より)

願いが叶ったときの反応

多くの人は、神がおられるのなら願いをかなえてほしいという思いを持っているのではないかと思います。お金が欲しい、賢くなりたい、健康になりたい、などいろいろな願いがあります。もしこれらの祈りが叶うならば、人は大いに喜ぶでしょう。本日のルカによる福音書に登場するシモンは、経験上はあり得ない大量の魚が獲れたのを目の前にしました。漁師にとって大量の魚が取れるということは喜びのはずです。しかしシモンは大量の魚が取れたのを見て恐れを感じました。その出来事があってから彼はイエス様の招きの言葉に従って、すべてを捨ててイエス様に従いました。なぜシモンは恐れ、そしてイエス様の言葉に従ったのでしょうか。そしてこの出来事は私たちとどのような関係があるのでしょうか。このことを本日与えられた御言葉に聞きたいと思います。

神に出会い新しい生き方へ

この物語の場所はゲネサレト湖畔です。この湖は魚が豊富な湖で、古くから漁がおこなわれていました。ある日のこと、シモンとその仲間の漁師は夜通し漁をしても何も捕れませんでした。彼らは落胆しながら網の手入れをしていました。そこにイエス様が現れました。イエス様の周りには大勢の人々が押し寄せてきました。

イエス様はシモンの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出してほしいとお頼みになりました。シモンはその頼みを聞いて舟を出しました。疲れていたし網の手入れをしているところだったのに、なぜ彼がイエス様の頼みを聞いたかは書かれていません。しかしシモンのこの行動がシモンの人生を変えることになりました。

イエス様は舟に腰を下ろして群衆に教え始めました。そしてイエス様は話し終えるとシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ここでシモンには二つの選択肢が与えられます。イエス様の言葉に従うか、従わないかです。彼は夜通し漁をして何も捕れませんでしたし、今は日中ですから経験によれば魚がいるはずがない時間です。沖の方は深くて、経験上、そのような場所に魚はいないことを知っています。それに疲れていて早く眠りにつきたいと思っていたことでしょう。彼がイエス様の言葉に従わなくても当たり前と思える状況でした。

もしシモンがイエス様の言葉に従わずに舟を岸に戻していたならば、彼は奇跡を見ることはありませんでした。ところがシモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えて、イエス様の言葉に従う選択をしました。「何も捕れなかった」という言葉に、シモンの漁師としての知識と経験が現れています。それでもなおシモンは「しかし、お言葉ですから」と言って、イエス様の言葉に従いました。そして彼は奇跡を目の当たりにするのです。シモンだけでなく他の漁師も一緒にイエス様のお言葉の通りにすると網が破れそうなほど大量の魚がかかりました。もう一そうの舟にも手伝ってもらってようやく魚を舟に上げましたが、2そうとも沈みそうになったほどでした。これが奇跡であることは漁師たちが一番よくわかったことでしょう。奇跡は神さまがその場におられることのしるしです。

シモン・ペトロはイエス様の足元にひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。大量の魚が捕れた喜びよりも、起こり得ないことが起こったこと、それもイエス様の命令に従ってこの事が起こったことに驚いて、自分が汚れた者、罪深いものであることに気づきました。一緒にいたヤコブとヨハネも同じでした。人は神の恵みを受けると罪を自覚します。ある神学者は「これは神の栄光を見たことで生まれる最も深い罪の認識である」と説いています。ペトロはイエス様に神を見て罪深い自分がそこにいることに恐怖を感じたのです。

イエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。「あなたは人間をとる漁師になる」という言葉は原典では「あなたは人間を生け捕る者になる」と書かれています。つまりシモン・ペトロたちは神の王国に入れるために人々を集める使命をいただいたのです。旧約聖書のエレミヤ書16章16節に「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。」というエレミヤの言葉が記されているように、主なる神は人々を神の国に招くための福音伝道者を漁師にたとえています。この旧約聖書の言葉とイエス様の言葉はつながっています。イエス様自身が神の国の福音を宣べ伝えるためにこの世界に来られました。ペトロたちはイエス様の代理の役割を担うことになるのです。イエス様に主なる神を見たペトロたちはイエス様の言葉に従う決心をしました。その使命がどんなに大切で重要なことか、ペトロたちは大量の魚が獲れた出来事によって知ったのだと思います。

彼らはイエス様に従うか従わないかの選択をしなければなりません。しかし彼らは目の前で神の栄光を見たのです。イエス様に従うという選択以外には考えられなかったと思います。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました」(11節)。ギリシア語で「捨てる」には「解き放つ」という意味があります。彼らはイエス様に従うという決心によって仕事を解き放しました。さらに家族とのつながりも解き放ちました。そしてイエス様に従いました。彼ら自身がイエス様によって神の国に招かれました。そして彼らは人々を神の国に集めるための働きを担うことを決心して新しい人生を歩み始めました。

神を知らない時は困難に出会うと不平不満を言ったり、諦めや絶望に陥ります。しかし神を知り神の国に入れば困難に出会っても神が共にいてくださることに信頼して困難に踏み出す力と勇気が出てきます。

奇跡を見せてくださる神

神は必要とあらば奇跡を見せてくださいます。私たちの教会にも奇跡が起きました。洗礼を決心された方が起こされ、そのことを申し出てくださいました。その決心に導いてくださったのは主なる神さまです。復活のイエス様が招いてくださいました。これは一般の方には偶然の出来事に思えることですが、信仰者の目には奇跡です。洗礼を決心された方々が神の国に招かれて、共に神さまを賛美しながら喜びの日々を送ることができますように祈ります。

また、今日はこの礼拝式の中で幼児祝福式が行われます。生まれた赤ちゃんが神さまの祝福を受けてすくすくと成長するように皆で祈りたいと思います。幼児祝福式が行われるのは決して当たり前のことではありません。赤ちゃんとそのご両親はいろいろな経緯を経て今日、ここに集い、神さまの祝福を得ようとされています。そこにはご両親と赤ちゃんのことを祈っている方々がおられます。そして神さまが導いて祝福の時を備えてくださいました。今日、礼拝堂やパソコンの前に集っている私たちは、赤ちゃんの健やかな成長を願い、神さまに導かれて幸せな人生を送るように祈りを合わせたいと思います。

神さまは私たちに奇跡を見せてくださいます。私たちは12使徒のように仕事や家族から解き放たれることはありませんが、それでも新しい生き方へと招かれており、古い生き方から解き放たれています。すなわち新し生き方をするために古い生き方を捨てました。世の荒波が押し寄せようとも恐れることはありません。復活のイエス様が私たちと共にいてくださいます。