2月23日礼拝説教「善を行い命を救う」

聖書 マルコによる福音書3章1~6節

そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(5節)

教会の働き

今日は礼拝後に2025年度の教会の活動を決める教会総会を行います。神様がこの世に誕生させた教会はそれぞれの地で主にある愛の交わりを深め、神さまの御言葉を伝える働きを担っています。土気あすみが丘教会もそのひとつとして神様に託された働きを担い、神の国を建設するためにそれぞれの力をひとつにしたいと思います。

安息日に癒しをおこなう

本日与えられたみ言葉はマルコによる福音書3章1節から6節です。ここにはイエス様が安息日に片手の萎えている人をいやすという出来事が記されています。

場所と登場人物を確認しますと、場所はユダヤのガリラヤ地方のどこかの町の会堂と思われます。安息日にイエス様は会堂にお入りになりました。そこに片手の萎えた人がいました。この人は汚れているとされて会堂の中には入れてもらえなかったと思われます。会堂の外から窓越しに礼拝に参加していたのでしょう。そして会堂には大勢のユダヤ人がいました。その中にはファリサイ派の人々がいました。ファリサイ派の人たちもそれ以外の人々も当時の常識として安息日には働いてはいけないということを知っていました。その安息日にこの会堂で出来事が起こりました。

当時の礼拝では人々は会堂の床に座って礼拝していました。その時、イエス様は手の萎えた人がいるのに気づいて会堂の真ん中に立つように言われました。なぜ人々が手の萎えた人が会堂の真ん中に立つのを邪魔しなかったのか、その理由は分かりません。推察されることは、安息日であるにもかかわらずその手の萎えた人をイエス様がいやされるのかを見たいという思いがあったということ。あるいはイエス様の言葉に権威があって、そのことを止めることができなかったということではないかと思います。イエス様は人々に次のように言われました。

4節 「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

このイエス様の問いは鋭いと思います。もし問いが「安息日に許されているのは働くことか、働かないことか」であれば人々は即座に「働かないことだ」と答えたでしょう。しかしイエス様の質問は「善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」というものでした。善を行うことと悪を行うことは二者択一、つまり善をおこなうかおこなわないか、の決断を迫られていることを示しています。「命を救うことか、殺すことか。」も同様で、命を救わないことは殺すことで、命を救うか殺すかの決断を迫られています。

イエス様は誰も答えないことに怒って人々を見回し、その人々の頑なな心を悲しまれながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われました。その人が力が入らないはずの腕を伸ばすと手は元通りになったのです。イエス様は言葉によってこの人をいやしました。

これを見ていたファリサイ派の人々はヘロデ派の人々と一緒にイエス様を殺すことを相談し始めました。イエス様が安息日には禁止されている治療行為をおこなったことを重大な律法違反と見なしたからです。

安息日について

さて、そもそも安息日とはどのようなものだったのかを旧約聖書から確認してみたいと思います。創世記2章2節の世界の創造の出来事は次のように記されています。

第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

ここに書かれている「安息する」というのは「憩う」とか「止める」という意味で、バビロン捕囚前までは6日間の労働の後の7日目に休息日が定められていました。モーセが十戒を与えられた出来事(出20章)の後に人々が安息日をどのように理解していたかが出エジプト記23章12節に書かれています。

出 23:12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。

安息日に仕事を止める理由は、牛やろばが休み、労働者が元気を回復するためだったのです。青山学院の第二代総長を務めた本田庸一は学生が安息日にも活動したいと言っていることを知り、彼らに「安息日です。球も休ませてあげなさい」といったそうです。これは実話だそうです。

それからかなり時代が過ぎてユダヤが滅びて人々がバビロンに捕囚となった頃から安息日の意味が変わってきました。捕囚の民は自分たちの国が滅び捕囚となったのは自分たちが神の戒めを守らなかったからだと考え安息日を厳格に守るようにしたのです。それがユダヤの人々のアイデンティティとなりました。つまり国がなくなった人々は自分たちが神の民であることを、安息日を守ることによって示しました。このことは申命記5章12節から15節に次のように記されています。

安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(略)あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

それから時代が過ぎていき、厳格に安息日を守ることに例外ができてきました。それは命を守るためには安息日に働いても良いというものです。たとえば旧約聖書続編のマカバイ記には、イエス様の時代の160年ほど前に起きたマカバイ戦争の出来事が記されていますが、その戦争では安息日を最重要なものとして、ユダヤの兵士たちは安息日に敵が攻めてきても戦わず死ぬことを選びました。この出来事に対して人々は彼らを悼み、次のように語り合いました。

「異教徒に対して戦わなかったあの兄弟たちのように、我々も自分の命と掟を守るために戦うことをしないなら、敵はたちまち我々を地上から抹殺してしまうだろう。」こうしてこの日、彼らは協議して言った。「だれであれ、安息日に我々に対して戦いを挑んでくる者があれば、我々はこれと戦おう。我々は、隠れ場で殺された同胞のような殺され方は決してしまい。」(Ⅰマカ2:39~41)

このように命を救うために安息日規定に例外が設けられました。

「命」とは

そうすると、イエス様が安息日に手の萎えた人を癒そうとされているのは命を救うためであったのかという問いが出てきます。死を身体機能の停止と理解している間は、ここでイエス様が行った出来事を理解することはできません。「命」とは何か。「命」とは「関係性の内にある」ということです。神との関係にあることや人間同士の関係にあることが命なのです。誕生によって生まれ、死によってなくなるものが命ではない、ということが分かれば、イエス様が「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マコ3:4)と会衆に問いを投げかけた意味が分かってきます。

テレビで「引きこもり」を話題にした番組を放送していました。引きこもりは精神的・肉体的な疾患のために社会生活ができない人々と思われていますが、引きこもりの人々に寄り添う活動をしている人々はその人たちが社会に戻ろうとしても戻る仕組みがなくて苦しんでいることに気がついたというのです。引きこもりの人たちは社会との関係性が希薄になっている意味で「命」が希薄になっている、そういうことだと思います。

手の萎えた人は社会的な関係性が希薄になっており、また汚れた者と見なされて神との関係も閉ざされていたのではないかと考えると、この人は命の危険にさらされていたということになります。安息日にこの人を癒すことは命を救うことなのだということが分かってきます。そして父なる神の御心を行うという意味で、善をおこなうことだということが分かってきます。

イエス様はマルコによる福音書2章27節で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言われました。この言葉こそ主なる神が安息日を定めた元々の意味を表しています。安息日とは「憩うこと」であり「止めること」なのです。人は安息日に神の恵みを想って感謝し、神を讃えることが許されます。もちろん他の日にも神を想って働くのですが、安息日にその日常を止めて神を想い、恵みに感謝することで、私たちは自分たちが神に造られて祝福された存在であることを思い出すのです。それは私たちが人間性を回復する時なのです。

命を回復させていただく礼拝

私たちはイエス様がよみがえられたことを思い起こして、週の初めの日曜日を聖日として礼拝を行っています。礼拝によって私たちは神との関係を固くし、命を回復させていただき、人間性を取り戻すのです。私たちが、私たちの心が、私たちの身体が、実は萎えているのです。目には見えない。でも私たちは疲れ果て、やる気がなくなるとか元気がなくなるとか。べつに体のどこかに異常があるのではないのに生きる気力がなくなってしまう。

それを回復させてくださるのはイエス様に出会わせていただくからなのです。イエス様が私たちを回復してくださるのです。今日、イエス様は「手を伸ばしなさい」と私たちに言ってくださいます。「あなたの萎えた心をのばしなさい」、「あなたのしわくちゃになった心をのばしなさい」と言われます。

私たちの心が癒されます。私たちも知らず知らずのうちにこの世の中でいろんな苦難に出遭い命の危険にさらされています。だからこそ私たちは教会に来て、主を礼拝し、命を回復させていただかなければならないのです。イエス様はファリサイ派の人たちが自分の命を狙おうとも、私たちを命へと回復させてくださる。自分の命よりも私たちを救おうとされる。十字架にかかる道を歩まれたのは私たちの命を回復させてくださるためであります。

命を回復していただこう

そしてまた私は思うのです。私たちだけが命を取り戻すのでは私たちは満たされたとは言えないのではないかと。主なる神は隣人との関係を回復させて、すべての人が命を取り戻すようにすることを求めておられます。これが神の御旨であります。今、私たちの目には見えないけれども社会の中で孤立している人たちがいます。もしその人たちと関係ができたならば、その人たちに神様の言葉を伝える、あるいは一緒に神様の言葉を聴く礼拝にお誘いする、その人たちに命の言葉があることを伝えるということができると思うのです。

ただ、私たちは無理やりさせるのではありませんし、無理に伝えるのではありません。その人たちにタイミングがあります。救いを求めたいという思いになるとき、実際に行動を起こしたいとおい思いになるときが来るのです。私たちは忍耐して神の言葉を伝えていく。それは、私たちが礼拝して喜びを得ていることを、言葉だけではなく行動をもって示していくということを続けることなのであります。

その人たちが来たくなったら来ることができるようにいろいろな形で案内をする。教会は命を回復させていただくところだということをいつも発信していく。そして教会は楽しい所だよ、ということを発信する。「楽しい」というのは注意して使わないと「娯楽」と勘違いされてしまいますが、そうではなくて心豊かになるということを伝えていくためには癒しにつながる音楽やダンスやいろいろな催しをして、とにかく「ここに教会がある」ということを知っていただく。これが大切なのではないかと思うのです。

善を行い命を救う

そして私たちは祈りたいと思うのです。まず、主が先だってこのことをしておられるということを信じることができるように。この教会の屋根の上に十字架が立っています。あの十字架は主イエス・キリストが先だってこの御言葉を伝えておられる、命の言葉がここにあるということを示しておられます。

それともう一つ、主が私たちを用いてくださっているのだということを信じるということです。私たちの力では何もできません。きっと恥ずかしいと思うでしょう。私たちの力によるのであれば、誰も言葉をかけることなどできません。しかし主が私たちを用いてくださるのですから、私たちは主に委ねて私たちに出来ることをしていけばよいのです。

今日、私たちはこれから教会総会を行いますけれども、主の御言葉をどう表していくかということを思いながら、新しい1年の歩みを求めていきたいと願います。