3月2日礼拝説教「栄光に輝く主」

聖書 創世記45章3~8節、ルカによる福音書9章28~36節

すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が
雲の中から聞こえた。(ルカ9:35)

受難週が始まる

今年は今週の水曜日3月6日から受難節が始まります。教会によってはこの日に礼拝を行い、しゅろの葉を燃やした灰で額(ひたい)に十字のしるしをつけてイエス様の苦難を思い、自分を見つめ直す時を過ごします。この時はとても大切な時でイエス様の復活の喜びに至るための悔い改めの期間です。

日本語で悔い改めるというと何か悪いことをしたときにそのことを後悔して、今後そのようにしないように改めるということですが、聖書的には悔い改めるとは「主なる神との元来の関係に立ち帰る」ことです。私たちが人間関係だけを問題にして、それに振り回される生き方から、神さまとの元来の関係を回復させて神さまと共に生きる生き方に変えることが悔い改めです。

しかしそうはいっても神さまがどのようなお方か知らなければ神さまとの関係を回復させる生き方へと方向転換することはできません。そして神さまを知るためにはイエス様を知らなければなりません。イエス様が父なる神さまを私たちに教えてくださるからです。それができるのはイエス様が御子なる神であり父なる神さまの御心と同じであるからです。

本日与えられたルカによる福音書9章28節から36節は「イエス様のお姿が変わる」ことを記した箇所で、ここにイエス様が父なる神の御子であることと、その御心が父なる神と同じであることが示されています。

イエス様の変容

28節 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

ここに「この話」と書かれています。これはこの箇所の少し前にイエス様が受難と復活を予告したお話を指しています。この受難と復活の予告は安息日に行われたようですので、それから八日目ということはイエス様の復活を象徴しています。福音書の最後の方に「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」(ルカ23:56~24:1)という記録がありますが、この「週の初め」というのが八日目のことです。

そして、山はイエス様がたびたび祈りの場所とされていました。モーセが十戒を授与されたのが山であったように、山は神との出会いにふさわしい場所です。

29節 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。

イエス様の様子が変わる出来事は「変容」と呼ばれています。ここに「祈っておられるうちに」と記されています。イエス様は祈っていました。この祈りがどのような内容であったかは記されていませんが、ルカによる福音書からイエス様の祈りの場面を見つけてみると、イエス様は次のような祈りをされたのではないかということが分かります。それは弟子たちに教えた「主の祈り」(ルカ11:1-4)にすべてが含まれていると言えますし、それ以外にも感謝と賛美の祈り(ルカ9:16、22:17-19)や敵対者や迫害者が悔い改めるための祈り(ルカ6:28)を祈られています。このような祈りをささげているうちに、イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました。これは復活後の体をイメージさせるものですが具体的なことは人には何も明かされてはいません。パウロはコリントの信徒への手紙一で「霊の体が復活する」(一コリ15:44-45)と語っていますが、私たちがイメージできるものは何もありません。唯一、このイエス様の変容が復活後の体を暗示させています。

モーセとエリヤ現れる

30-31節 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

弟子たちがイエス様の方を見ると、二人の人物が見えました。遠い昔に先祖の列に加えられたモーセと天に上げられたエリヤです。弟子たちは旧約聖書に記されていることから二人がモーセとエリヤだと分かったのです。モーセは預言者として神の臨在の場に立ち、神からの命令を受けてエジプトからユダヤの民を出発させた預言者として旧約聖書の歴史の中で特別な存在でしたし、エリヤは火の馬に引かれた火の戦車によって天に上っていった特別な人物でした(列王下2:11)。そのことを知っている弟子たちには二人がモーセとエリヤであることが分かったのです。

ここに「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」と記されています。これはイエス様の十字架の死を意味しているのですが、ここに使われている「最後」という言葉に注目したいと思います。この言葉はギリシア語でエクソドスと発音し、「死」という意味と「出発」という意味があります。なにか似たような言葉を思い浮かべないでしょうか。これは英語のエクソダスのもとになっている言葉です。エクソダスといえば旧約聖書に書かれているユダヤの民の出エジプトのことです。

エクソドスはヘブライ人への手紙11章22節にも使われています。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。」という言葉です。この「脱出」と訳されている言葉がエクソドスです。そしてここに出てくるヨセフが先ほど読まれました創世記40章に出ているヨセフです。

イエス様の十字架の死はモーセとエリヤとイエス様にとって「出発」です。それはイエス様の父なる神のもと、そしてイエス様が元々おられたところへの出発なのです。その出発の出来事は一直線に天に上られて父のもとに戻られるのではなく、死んで葬られ、三日目によみがえって弟子たちに現れて弟子たちに使命を与えた後に天に上られるというものでした。

32節 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。

この出来事は夜に起こったことが分かります。イエス様は夜の静かな時を祈りのために用いるのを好まれました(6:12)。ここで弟子たちが変容して輝くイエス様とモーセとエリヤを見たことが繰り返して記されています。

33節 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。

ペトロが3つの仮小屋をつくることを提案しました。ペトロは仮庵の祭りを思い起こしていたのでしょう。仮庵の祭りでは、エジプトで奴隷だったユダヤの民を神が救出してくださった記念して幕屋を建てて祝いました。ペトロはイエス様とモーセとエリヤを賛美したい願い、また自分のところにとどまって欲しいと願ったのです。

神の臨在と声

34節 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。

雲は神の臨在と力を直接示します。出エジプト記には荒れ野を旅する間、主なる神が昼は雲の柱を持って人々を導いたと書かれています(出13:21)。また幕屋と呼ばれる移動式の聖所に主が来られる時には雲の柱が下りてきたと記されています(出33:9)。

さらに「覆う」という言葉は聖霊に用いられるもので、聖霊が包んで創造の力を振うことを表すことを表します。イエス様の母マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受ける時、ガブリエルはマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」と告げました。このイエス様の変容と三人の会話という出来事はイエス様が人間の救済のご計画の中心におられることを啓示しています。

35節 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

父なる神は雲の中からこの出来事の証人である弟子たちに向かって語り、使命の道を歩まれているイエス様が御子である神であり選ばれた者であることを伝えました。「これは私の子」というのは原典でははっきりと父なる神の実子であることを示しています。私たちも洗礼を受けて神の子とされましたが、それは養子であり、養子であっても神の国を引き継ぐ者とされました。ここではイエス様が神の実子であるということが重要な点です。

「選ばれた者」というのはイザヤ書42章1節に主なる神が「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」とイザヤに告げた「選ばれた者」です。父なる神はご自分の実の子を派遣する者としてお選びになられたことを明かしています。

「これに聞け」は厳密には「これの言葉に聞け」ということです。イエス様が語る言葉が救いをもたらすことが明らかにされています。

短い言葉ですが非常に重要なことを父なる神は3人の弟子に告げたということが分かります。それを言い換えれば、イエス様は神の実の子であり御子なる神であるということ、またイエス様は神に選ばれたお方で裁きをおこないこの世界を救い出すお方であるということ、そしてイエス様の言葉が記されている聖書の言葉を聴くようにということです。それが救いに至る道だということです。

36節 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

弟子たちはこのことをその当時、誰にも話しませんでした。このことを話したのはイエス様が復活して、これらのことを思い出させた後のことだと思われます。弟子たちが沈黙を守った理由は、もし彼らが沈黙を破ってこの出来事を語ったとしても誰も彼らの言葉を信用しないだろうということが分かっていたからです。そもそもこの3人の弟子はイエス様が語った死と復活の予告を確信できなかったのです。確信がないのですから彼らが証言したとしても、その証言が力を持つことはなかったでしょう。

神が遣わした救い主

イエス様がこの世に遣わされた出来事の起きるずっと昔の創世記の時代に予兆のような出来事が起きていました。それは創世記30章から50章に記されているヨセフの出来事です。先ほど司式者によって読まれた箇所はその出来事の一部です。

ヨセフ物語は有名で聖書の物語などを読んだことのある人は知っていると思います。子どもたちにも人気があります。少しヨセフについて振り返りますと、ヨセフは創世記に出てくる最初の祖先アブラハムの孫ヤコブの長男で、上に母親の違う兄が10人いて、下に同じ母親の弟が一人いました。父ヤコブは年を取って生まれたヨセフを誰よりも愛しました。そのため10人の異母兄たちはヨセフを疎ましく思うようになったのです。ヨセフはエジプトに売られて奴隷になり、その後にファラオに次ぐ宰相にまでななりました。彼は神の前にヘリ下り忠実にエジプトを納めました。宰相にまでなったのですから心配はなかったのかと思いきや、彼は父ヤコブや末の弟のことを思って悲しんでいました。

そして時が過ぎてエジプトやユダヤで大飢饉が起こった時に兄たちがエジプトに食料を求めてきました。ヨセフはこの時のために神が自分をエジプトに遣わしたのだということを悟り、「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創45:8)と兄たちに告げました。

イエス様が父なる神に遣わされた時にイエス様は神の権能をすべてお捨てになり、まことの人となられました。それは無力な存在であります。イエス様は人間にしか見えませんでしたが、しかしイエス様は父なる神と心を一つにされていました。そしてイエス様こそが父の言葉に聞き従っていました。

救いの源泉

イエス様を信じることが救いであるということは、イエス様の変容の出来事に明らかにされています。イエス様は父なる神のまことの子です。そのイエス様が十字架の死によって私たちを贖ってくださいました。イエス様にしか私たちを贖い、救ってくださるお方はおられません。

そしてまた、もうひとつのこととして、死が出発であるというのは私たちにとって希望です。私たちも神さまに招かれて朽ちるものを脱ぎ捨てて(Ⅰコリ15:53)神さまのもとに出発するのです。肉体が朽ちることは終わりではありません。神のもとへの出発なのです。