聖書 申命記 26章 1~11節、ルカによる福音書 4章 1~13節
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:13 )
受難節の始まり
教会の暦は先週の水曜日3月5日から受難節になりました。今日は受難節の最初の主日です。受難節はイエス様の復活を記念するイースターの前日から遡って日曜日を除く40日間です。この期間に教会ではイエス様の苦難を通して悔い改めへと導かれます。
誰でも悪いこととは知りつつ、ついしてしまったという経験をお持ちではないかと思います。私たちに誘惑をもたらす悪の力は非常に強いのです。また悪の伝染力は非常に高いといえます。身近な例として、電車に乗る列で並んでいると横から割り込む人がいます。そうすると列に並んでいた人たちはその人に憤慨するだけでなく、その方が得だと思ってしまいます。そんな人は僅かしかいないのですが大勢いるように感じてしまいます。それが悪の力です。そして自分も割り込みをしたくなります。それは悪の伝染力です。
悪魔の誘惑
本日の新約聖書の御言葉はイエス様が悪魔に誘惑を受ける場面が書かれています。ルカによる福音書4章2節にイエス様は40日間何も食べなかったと記されています。成人男性は36日くらい、女性は40日くらい食べないと餓死するそうですから40日間というのは餓死寸前ということになります。食べないと急激に筋肉が衰え、頭や体の機能が低下するそうです。
イエス様はそんな状態で悪魔から3つの誘惑を受けました。最初の誘惑は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」というものでした。この誘惑は生きるために一番大切なものを失わせる誘惑です。私たちは食べなければ死んでしまいます。だから食べることは大切であり、餓死寸前のイエス様自身も食べ物があれば食べたいと思っていたことだと思います。悪魔の誘惑は正常な判断ができなくなっている人にはとても避けられないような誘惑でした。しかしイエス様は旧約聖書の御言葉によってその誘惑を撃退しました。それは4節に書かれています。「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉です。これは申命記8章3節に書かれています。そこには「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と書かれています。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と書かれています。
次に悪魔はイエス様を高いところに連れていき世界のすべての国を見せてから、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」とイエス様を誘惑しました。
この世の王にするという誘惑です。この世の財宝や権限がすべて手に入るというのはとても大きな魅力です。悪魔を拝みさえすればよいというのですから条件は大したことには思えません。この誘惑がどんなに魅力的か想像できると思います。聖書に証しされている主なる神以外を神とすることの例には、お金、自分自身、地位、名誉などいろいろなものがあります。この誘惑には、この世の栄華を拝み、それを追い求めることも含まれます。悪魔を拝む、この世の栄華を拝み追い求めることは、実は果てしない欲望の沼にはまることです。
イエス様はこの誘惑も旧約聖書の御言葉によって撃退しました。それは8節に書かれています。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という御言葉です。これは申命記6章13節に書かれています。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」という御言葉です。私たちを造り、導いてくださるのは主なる神以外にはありません。
最後に悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」と詩編91章11節と12節の御言葉を使って誘惑しました。これは「神がいるというならそれを示せ」という誘惑です。
神を信じる人は、そのような言葉を受けた時、「神さま今、ここに現れてあなたがおられることを示してください」と祈りたくなります。祈るだけなら良いのですが、だんだんエスカレートして「なぜ現れてくれないのですか」と神に不信感を持つようになります。これこそが悪魔の狙いです。イエス様はこの悪魔の誘惑に対し、やはり今までと同じく旧約聖書の御言葉によって対抗しました。12節をご覧ください。「あなたの神である主を試してはならない」という言葉です。これは申命記6章16節に書かれています。「主を試す」とは自分の都合の良い時、例えば困った時に神に頼ろうとする事です。これでは神は用心棒のような存在でしかありません。神の御心に従って正しい人生を歩むと言うのとは大違いです。イエス様は悪魔の誘惑が主を試すことであることを見抜き、これをみ言葉によって退けました。
私たちへの誘惑
餓死寸前の意識が朦朧とした状態の時には、心が弱っているので、目の前の良さそうなものに手を出したくなるものです。イエス様はそのような時に誘惑を受けましたが、聖書の御言葉を用いて対抗しました。聖霊はイエス様と共におられました。
誘惑は巧妙に行われます。私たち人間の経験や知恵で対抗するのは困難です。誘惑する者は誘惑のあらゆる手段を知っています。経験も豊富です。悪魔は悪魔らしい姿で現れるのではありません。親切であったり優しかったりします。一時期は「オレオレ詐欺」と言っていた「特殊詐欺」は誘惑の例です。お年寄りの家に電話して自分の子どもや孫と勘違いさせて、困ったことになったと信じさせて、大金を振り込ませるといった手口でしたが、最近では投資詐欺やロマンス詐欺といったいろいろな詐欺のパターンがあるようです。警察や報道関係で「特殊詐欺」防止の活動をおこなっていますが、被害は増加の傾向にあります。最近では電話やインターネットを使った詐欺の被害が増え続けています。2024年は電話を使った特殊詐欺の件数が2万件、被害額は700億円以上でしたし、インターネットを使った詐欺の件数が2023年の約3倍の1万件に増え、被害額は1300億円近くだったそうです。
そんなにだまされるものだろうかと思うのですが、努力や苦労をせずに利益や成功が欲しいと思う気持ちや、苦労せずに利益を得ようとする欲につけ込んで、まるで催眠術にかけられたように信じてしまうようです。誘惑は私たちの身近にあり、そしてその誘惑に陥る危険は誰にでもあります。知り合いが振り込め詐欺の電話を受けたことがありました。電話の話から相手を息子と勘違いをしました。相手は「会社に損害を与えてしまった。今なら処分を受けなくて済むからお金を貸してほしい」と求めました。この言葉を聞いた知り合いは「主を信じなさい」といつも息子に言っていた言葉を伝えたそうです。その言葉を聞くと、電話の相手は電話を切ったそうです。この人は相手を自分の息子と信じました。しかし自分で何とかする前に、「主を信じなさい」という言葉をかけたのです。これは神に信頼を置いているからこそできたことだと思います。咄嗟(とっさ)の時に御言葉に立ち返ることができれば誘惑は退けられます。
私たちが誘惑に勝つということは、私たちの知恵や努力だけでは難しいのです。聖書を読み、御言葉を心に覚えていれば、その御言葉によって誘惑に打ち勝つことができます。ここで注意しなければいけないことがあります。それは誘惑者も聖書の御言葉を用いて誘惑するということです。私たちが信じるようにあの手この手を使って誘惑します。だから御言葉の意味を知ったうえで覚えておくことが大切だということを思わされます。
教会は2000年の間、御言葉を宣べ伝えてきました。礼拝ではみ言葉が語られ、その説き明かしが行われます。この中で聖書の御言葉が神の御言葉に変わります。御言葉を信じる信仰が私たちを誘惑から守る盾です。
最後に、私たちには誘惑者の誘惑をはね返す言葉が見つからない時があるかもしれません。そのような時には祈ることが支えになります。主の祈りには「我らをこころみにあわせず悪より救い出(いだ)したまえ」という言葉があります。この祈りこそ私たちを誘惑に勝たせてくれる祈りです。
悪魔の誘惑に勝つ
悪魔はひとときイエス様を離れました。再び現れたのはイスカリオテのユダに入ったときでした。イエス様が十字架につけられた時、神の勝利が始まりました。十字架につけられて死なれたイエス様は復活なさったのです。まことに不思議なことです。しかし、ここにしか救いはありません。
ここで問われていることはただひとつ、私たちの主イエス様の十字架です。神は御子を十字架につけることによって神であることを明らかになさいました。いま私たちはイエス様のゆえに聖霊が注がれて、勝利の望みを持ってここにいます。この確信を新たにしたいと思います。