3月23日礼拝説教「執り成す主」

音声プレーヤー

聖書 イザヤ書55章6~7節、ルカによる福音書13章1~9節

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。(イザヤ55:6~7より)

「執り成す主」

本日与えられたルカによる福音書13章1節の冒頭には「ちょうどそのとき」と書かれています。この箇所の少し前を見ていただくとどういう状況かが分かります。イエス様が人々に「あなた方を訴える人と仲直りするように」という教えを語られた「そのとき」です。「仲直り」とはパウロの手紙にある「神と和解させていただきなさい」の「和解」のことでです。イエス様は人間同士が仲直りすることが大切であることを教えています。

その教えの後に、イエス様は殺害されたガリラヤ人、シロアムの塔が倒れて死んだ18人のことについてイエス様が語った言葉、そして実のならないいちじくの木の譬えのことを話されました。そういう意味で、本日の箇所は人間同士の仲直りに関連していると言えると思います。

悔い改めなければ滅びる

イエス様が教えを語っておられる時に何人かの人が来て、ローマ帝国から派遣されたユダヤ総督のピラトがユダヤ北方のガリラヤ地方の人たちを殺して、いけにえの血にその人たちの血を混ぜたという恐ろしい出来事を告げました。

イエス様は同じ出身地の人たちが無残に殺されたことを聞いて、ピラトの横暴を非難し、怒りを表されるのかと思いきや、殺された人たちのことを語りました。イエス様の言葉です。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(2、3節)

その後にイエス様はエルサレムを囲む城壁の一部であるシロアムの塔が倒れて18人のエルサレム住人が死んだ事故のことを語りました。

「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(4、5節)

一方は、悲惨な殺りくによって死んだ人たち、もう一方は突然の事故で死んだ人たちです。殺りくで死んだガリラヤ人や事故で死んだエルサレムの18人は他の人々よりも罪深いわけではなかったかもしれませんが、この人たちは突然の死を迎えたということにおいては同じであります。死は、この人たちと同じように、誰にでも突然訪れます。人は自分がいつ、どのようにして死ぬかを知ることはできません。そしてまた願っても叶えられるとは限りません。これは神の支配の領域に属していることです。ルカによる福音書12章には愚かな金持ちのたとえがあります。大豊作になって、収穫物をどうやって蓄えておこうかと考えた金持ちは倉を新設しました。倉が建って穀物を全て納めて、「やれやれこれで安心だ」と思ったその夜に彼の命は取り上げられました。

神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。(ルカ12:20)

この譬え話からも死が私たちの知ることのできないものであることがわかります。死はだれにでも平等に与えられます。金持ちも貧しい人も、幸せな人も不幸な人も死にます。そして死の後に裁きを受けることになっています。

イエス様が「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と2度繰り返しているのは、「悔い改める前に死ぬことのないように」という教えです。悔い改めということをやさしく表現した人の言葉によると、それは「生活を改める」ということです。ですからイエス様は「あなたの生活を改める前に死ぬことのないように」と教えているのです。

それではどういう生活をどのように改めるというのでしょうか。この箇所の少し前にある「訴える人と仲直りをする」というのがヒントであると思います。このイエス様の教えには人間同士の仲直りのことしか出てきませんけれども、その前提には、神との関係が正しくなるということがあります。神との関係が正しくなるということにおいて人間同士の仲直りができるようになるということが前提となっています。パウロがローマやコリントやエフェソの信徒に「神と和解させていただきなさい」と書き送りましたけれども、神と和解させていただいて、私たちが神に立ち帰るからこそ、人間同士の仲直りができるようになるのです。

イエス様はこれから十字架におつきになられます。それは人間が神と和解させていただくことを可能にするためのものです。人間が神を忘れて、人間同士で争いを解決しようとしても、それは無理なのです。神がおられて私たちを愛し導いておられるということを知って、初めて人間同士の仲直りができるようになります。このような生活に改める前に死ぬことのないようにしなければ私たちは滅びる、とイエス様は教えておられます。滅びるというのは死ぬとは違います。それは突然訪れる死のことではなく、より広い意味です。それは復活の望みがないということであり、今生きている私たちの生活の中においても現れてきます。

実のならないいちじくの木のたとえ

このことについてイエス様は実をつけないいちじくの木の譬えを話されました、私たちは不足を感じています。お金があったらこんなことができるのに、時間がもっとあれば休めるのに、いつも働いて疲れてしまっていて時間が足りない。あるいはもっと能力があればいろんなことができるのに能力が足りないと、私たちは足りていないことを良く知っています。毎日が生きるのに大変です。人間関係も難しい。多くの人は有り余るほどのものを持っていません。だから何もできないと思ってしまう。これは実をつけないいちじくに似ているといえないでしょうか。きっとイエス様は実をつけないいちじくの譬えを通して私たちが何もできないことを理由にして何もしないでいることに気づかせて下さっているのではないかと思うのです。
何もできないと思って何もしないでいると不足から抜け出ることはできません。それは豊かにはなれないということです。人生を呪い、運命を呪い、刹那的な喜びを求め、希望の見えない将来を忘れようとする。他者よりも少しでも良いポジションにいることを求め、心が安らぐことがない。これは死ぬよりも苦しいことかもしれません。実のならないいちじくの木は何もできないと思って自分の生きることだけに心を砕いている私たちだといえるでしょう。このいちじくの木に最後の恵みの期間が与えられました。園丁であるイエス様は父が「切り倒せ」と命じるいちじくの木をかばって猶予を願ってくださいます。

「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(8、9節)

いちじくの木は猶予を与えられました。この木は猶予を与えられている間に実をつけるように努力しなければなりません。あれが足りない、これが足りないと言っている場合ではないのです。しかもこの園丁はいちじくの木が実をつけるために必要なものをすべて与えるのです。いちじくの木がそのことに気がつけば実をつけることは可能な状態であるといえます。

不足しているけれども与えられているものを分かち合うときに私たちは豊かにされるということに気がつくと豊かになっていきます。不足していると思っていることも、実は勘違いであることが分かってきます。既に与えられています。私たちが限界を超えて何かをしたいと思うことを欲望だと理解して、与えられているもので十分大丈夫なんだというふうに気がつくならば、そのことが分かります。既に与えられているのです。私たちが生きていくのに必要なものはすべてそろっています。

ペトロは金持ちではありませんでしたけれども福音を語ることで人々を豊かにしました(使徒3:6)。パウロは大変な苦労をしましたが「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないではいられない。だれかがつまずくなら、わたしは心を燃やさないではいられない。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(Ⅱコリ11:29-30)と証ししました。

イザヤの預言

私たちは死ぬ前に手遅れにならないうちに、預言者イザヤが「見出し得るときに主を尋ね求め、近くに居ますうちに主を呼び求めよ」(イザヤ55:6)と神の言葉を告げたように、主なる神を求め、見出したいと思います。キリスト者であっても見失っているかもしれません。洗礼を受けたことで安心してしまい、ぶどうの木から離れた枝のようになっていないか省みたいと思うのです。神の愛が私たちに注がれて私たちは人を愛するのです。

主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。(イザヤ55:7)

このような神です。この神のもとに帰りましょう。私たちが主の恵みに応える生活に改める前に死ぬことのないようにイエス様はご自分の命を懸けて私たちを導いてくださいます。

仲直りの広さ

仲直りということについては広くとらえる必要があると思います。私は今日の準備をしているときにある本と出会いました。それは『訴歌』という題名の本です。この本にはハンセン病で隔離された人々が詠んだ俳句や短歌がたくさん掲載されています。最初の法律が制定されて隔離が始まったのが1907年で、それが終わったのは1996年でした。当時、少年少女だった人たちは一生を隔離施設で過ごさなければなりませんでした。その人たちの人生が歌に残されています。

病気の人たちは病気の進行により視覚や嗅覚・触覚を失っても、残された身体の感覚を使って四季の変化を感じ、日々の喜怒哀楽を愛しいとおしみ、互いに助け合い、社会的弱者や小さな動物の命にも心を寄せながら、伸び伸びと詠んでいます。人はどんな過酷な状況の中でも誇り高く、生き抜けることを、歌に託して後世に伝えようとしています。

「捨てて来し仔猫が先に戻りゐし」(中村花芙蓉)。子猫を飼っていたけどどうしても飼えなくなったから、心を鬼にして捨てて来たのに、作者の足が不自由なおかげで子猫の方が先に家に帰っていて子猫は捨てられずに済みました。

「すみれ花 故郷の父の好きな花 花瓶にさして かわゆがりけり」(N・T子[小学校5年生])。この少女が可愛がるすみれの花は、恋しいお父さんに可愛がられたい自分自身なんですね。

私はこのような人たちのことを知って、自分の不足ばかりに目がいっている私が悔い改めるきっかけとなりました。そして心が豊かになりました。私たちが知識としてではなく、他者の命や生活を知るならば悔い改めへと導かれるということを示しているのではないかと思います。

勇気づける言葉

イエス様は言われます。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」この言葉は呪いではありません。私たちが実をつけずに立ち止まっているときに私たちを勇気づける言葉です。死は私たちにとって突然訪れます。だから悔い改める前に死ぬことのないようにしてください。神がおられて私たちを愛しておられることを知り、その神に立ち帰ることができますように。私たちが神に立ち帰ることができるように主イエスは十字架におつきになられました。イエス様の愛に応えるならば私たちには必要なものが与えられている、私たちには限界があるけれどもその限界の中で生きるようにちゃんとしてくださっている。そのことを私たちは今日知ったのであります。私たちは感受性にあふれた豊かな心を与えていただけます。イエス様を見上げてイエス様に倣い、互いに仲良く愛の交わりを深めてまいりましょう。