3月30日礼拝説教「神に立ち帰りなさい」

聖書 ヨシュア書5章10~12節、ルカによる福音書15章11~32節

息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』(ルカ15:21)

「神に立ち帰りなさい」

ルカによる福音書にはイエス様のたとえがいくつも記録されています。その中には私たちの心を騒がせるような言葉があります。先ほど私たちが耳にしたルカによる福音書15章11節から32節のイエス様のたとえも私たちの心に波紋を投げかけます。

2人の兄弟がいて、弟は父の財産を半分もらって家を出て放蕩の限りを尽くしました。そして財産がなくなって生きていくことができなくなり雇い人にしてもらおうと父のもとに行きました。すると父は息子の行いを責めないで、息子を憐れに思い、息子を歓迎し、祝宴を開きました。

ところがもう一人の息子である兄が帰ってくると音楽や踊りのざわめきが聞こえてきました。兄には弟が帰ってきたことが知らされていませんでした。父は弟のために肥えた子牛を出しました。兄は父が自分のためには子ヤギ1匹もくれなかったと言って怒って家に入ろうとしませんでした。兄は財産の分け前をまだもらってはいません。そして弟が出ていった後も何年も父に仕えて働いていました。

私たちは弟が自分の行いの報いを受け、この兄が褒美をもらうのが当然だと考えるのではないかと思います。この父の行いに割り切れない思いを感じてしまいます。

 

イエス様のたとえを辿ってみたいと思います。弟は父に財産分与を願い出て、父はそれを行い、弟は財産を金に換えて父の家を出て遠くの国で放蕩の限りを尽くしました。そして弟は財産を使い果たし、さらに飢饉が弟を更に窮地に追いやりました。彼は生きていくことができなくなりました(11~16節)。

この弟は財産をもらって浪費しようと考えた時点で父との関係を断とうとしています。自分の欲望を満たすことの方が親を愛する気持ちよりも強くなってしまったのです。放蕩している間はきっと楽しく過ごしていたことでしょう。しかし遂に弟は財産を使い尽くして行き詰ってしまいました。

このような場合に人は「自己責任だからこうなったのは仕方がない」とか「意地でも父のもとには帰らない。恥を受けるよりは死を選ぶ」といったことを考えるのではないかと思います。この考えはいさぎよいといえば確かにその通りでしょう。

しかし弟は飢え渇きの中で「我に返りました」(17節)。自分が誰であるかに気がつき、自分の意地や絶望の思いを捨てて、恥や罰を受けるとしても父のもとに帰ることにしました。家に帰ったら父にこんなふうにお詫びをしようと思いました。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(18、19節)

これはもう言い訳や自分の行いを取り繕うというものではなく、本心からのものです。なぜならば、彼は息子として受け入れてもらおうとは考えておらず、ただ父のそばに居たいと望んでいるだけだからです。

彼はやつれはて、「せめて雇人として自分を受け入れてもらえるならありがたい」という思いで父の家に帰ってきました。父親がもし弟を弟の願うとおりに雇い人にしたのであれば兄は怒ることはなかったかもしれません。私たちはこれが正義だと考えます。

ところが父は彼がまだ遠く離れていたのに、息子を見つけるや、走り寄って首を抱き接吻しました。罰を受ける者としてではなく息子として迎え入れました。息子が「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」とお詫びの言葉を言い、続けて言うはずだった「雇い人の一人にしてください」という言葉を言う前に、父は言葉を発しました。しもべたちに「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」(22,23節)と言ったのです。

父は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(24節)と語りました。この言葉に父の喜びが表されています。しかし私たちはこの父親の非常識な愛し方、溺愛ぶりを受け入れることはできません。弟は雇い人として受け入れてもらえるだけでも幸せなことなのに、父は何事も無かったかのように彼を愛し受け入れて息子として扱ったのです。

 

一方、兄はいつもの仕事から帰ってきて、宴会の物音を聞きました。僕(しもべ)に尋ねるとそれは弟が戻ってきて、父がそれを祝っているのだといいます。兄は怒りを露わにして家に入ろうとはしませんでした。父親が出て来て彼をなだめましたが彼の怒りは収まりません。

兄の怒りはもっともなように思えます。彼は父親の財産を使うことなどなく、弟が出て行ってからも何年も父に仕えてきました。それなのに自分の宴会の時には父は何もくれなかったのです。

兄の怒りは何に根差していたのでしょうか。それは財産を金に換えて出ていった弟の記憶に基づいています。兄はきっと弟が父親の財産を食いつぶしたので財産をせびりに来たと思ったことでしょう。

兄は父親に言います。「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節) 兄は当然のことを言っているように思えます。兄は父の言いつけを良く守る立派な青年のように思えます。しかしこの「仕えています」という言葉に父との関係が主従の関係であることが表されています。主従の関係とは命令と服従の関係です。父が言ったことを兄は命令として受け取り、ひたすらその命令を忠実に実行します。そして兄はそのことによって父からの褒美を期待するという関係です。この関係には愛がありません。兄は父を愛しているから父の言いつけをすべて実行するのではないのです。父の思いを推し量るということができません。父は長男に、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」(31節)と言って、自分が長男を愛してすべての財産が兄の者であることを伝えました。恵みは彼に十分なのです。

このたとえで父は神を表しており、兄と弟は人間の代表者を表しています。弟は父との関係を切りましたし、兄は父との関係を命令と服従の関係だと誤解していました。この意味で兄も弟も罪を犯しています。このたとえには、兄が自分を見つめ直し悔い改めて父との関係を愛の関係に変えたかどうかについて語っていません。兄はその後悔い改めて父と正しい関係になったのか、それとも怒りが収まらずに父に反発し続けたのか、あるいは父を憎んで殺そうと考えたのか、それは私たちへの問いとして残されています。

 

イエス様はこのたとえをファリサイ派の人々に語っています。兄は、ファリサイ派の人々に代表される律法を文字通りに守る人々のことです。彼らは罪人が神の国に喜んで迎え入れられることを受け入れることができず、イエス様のこのたとえに腹を立てました。ファリサイ派の人々は「私たちはいけにえを献げ、神のために多くのことを行ってきたのに」と思ったに違いありません。彼らは自分よりずっと悪いはずの罪人が神の恵み深さによって赦されるということが我慢なりません。福音は罪人も含めてすべての人が悔い改めて神に受け入れられるという知らせです。このたとえを聞いたファリサイ派の人々はイエス様を排除しました。

 

弟である息子が父に言ったことを思い出します。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」 罪人は神に自分の罪を告白しました。すると神はその悔い改めを受け入れ、罪人を赦しご自分の許に受け入れました。この恵みの大きさは私たちが理解できないほどの大きさです。

私たちは、自分は正しい人ではないけれども悔い改めを必要とするほどの者ではないと思ってるのではないでしょうか。そのような思いの中に神から離れている自分がいることを忘れているのではないでしょうか。この放蕩息子のたとえでイエス様は私たちにこのことを問いかけていると思います。イエス様は兄が父の呼びかけにどのように答えたかを語ってはいません。それは私たちに対する問いとして今も開かれています。