4月20日イースター礼拝説教「救い主は復活された」

聖書 イザヤ書65章17~19節、ルカによる福音書24章1~12節

あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ24:6)

「救い主は復活された」

イエス様の復活をお祝いするイースターを迎えました。イースターおめでとうございます。私たちは3日前にイエス様の十字架の死を覚えて悲しみの受難日礼拝を行いました。主は本当に死んで葬られたのです。この3日間、力が支配し一人ひとりの人格や尊厳がないがしろにされる世界に生きることがどんなに苦しいことかを想像しました。無償の愛や友情が無価値なものに見えてしまう心細さがありました。しかし主は復活してこの世の価値を転換してくださいました。

本日与えられた御言葉はイエス様の復活の出来事を記した箇所です。女性たちがイエス様の墓から帰って来て弟子たちにイエス様の墓で起きた出来事を弟子たちに伝えました。しかし「使徒たちはその話がたわごとのように思われたので女性たちを信じなかった」11節に記されています。先ほど私たちが聞いた言葉です。使徒たちは女性たちの証言を信用しませんでした。これは2000年前のユダヤ社会では女性の証言は信用されなかったことに一因があります。報告した女性たちは使徒たちと一緒にイエス様に従っていた人たちであるにもかかわらず、使徒たちは女性たちの報告を信じなかったのです。ある神学者はこのことについて次のように述べています。

『復活はユダヤの人々が持っていたメシア像から理解できるものではありません。むしろ新たなものとして告げられています。この出来事は、イエス様の生涯を振り返って初めて明らかになるものであり、弟子たちは、ずっと以前に理解すべきであったことを、今になってようやく理解するのです。この出来事は心理学的に説明できません。信仰によってはじめて理解できるようになるのです。』

この神学者の見解によれば使徒たちは理性によって女性たちの報告を受け止め、常識によってあり得ないと判断したということになります。これは決して突飛なことではなく、キリスト者以外の人々にとって復活するということは決して起きないことだと信じているのと同じです。復活を生き返ることと思っている人にとっては、なおさら復活は受け入れられないことだと思います。復活は生き返ることではなくて新しい体によみがえることです。

女性たちはイエス様の体に香料を塗ろうとイエス様の墓に行って空の棺(ひつぎ)を見ました。彼女たちは23章55節にあるようにイエス様が墓に埋葬される時に墓について行き、イエス様の遺体が治められる様子を見届けていたのですから遺体を探し当てられなかったのではありません。墓の中にイエス様の遺体はありませんでした。

そこに輝く衣をつけた2人の人が現れて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と女性たちに告げました。

この言葉に復活のすべてが語られていると言っても良いと思います。特に「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」というのは復活宣言です。天使は女性たちにイエス様の復活を宣言しました。そしてイエス様が彼女たちと一緒にいた頃にお話になったことを思い出すように勧告しています。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」という「必ず・・・なっている」という言葉は「神がそのようにあらかじめご計画になっている」ということを表しています。そこで女性たちはイエス様の言葉を思い出して、イエス様が復活したことを理解したのです(8節)。

当時の人々にとって、イエス様が復活し、人々の前に現れたのは本当だったのかという疑問を満たすには断片的な証言で十分でした。「主は復活なさった」という言葉が力を持ったのです。ユダヤの支配層やローマ軍によって語ることを禁じられても、この言葉は燎原の火のように広がっていきました。皮肉なことに「すべての道はローマに通ず」ということわざまであるローマ帝国の街道が帝国中にイエス様の復活を広めるのに貢献しました。このことの例はパウロの伝道旅行に記されています。

イエス様が復活したことの意味のひとつは神の力が死を無力にするほどのものであることを人間に明らかにして神の栄光を現したことだと言えます。このことによって信じる人々は死をむやみに恐れることはなくなりました。死は後戻りできない終わり、その先は何もないという恐怖から人間を解き放ってくださいました。更なる意味は、神の無償の愛の勝利だということです。人間に罪が入り悪が支配するようになると、力が支配するようになります。人々は神を忘れて人間同士の競争に明け暮れなくてはならなくなり、個人の人格や尊厳はないがしろにされてしまいます。心には思い煩いが溜まり、平安でいられなくなります。そのような力の支配が神の無償の愛に勝ったかに見えましたが、イエス様が復活することによって神の無償の愛が力を無力にしたのです。そして最後にイエス様が復活されたので今も信じる者には救い主がいてくださって苦難から救ってくださるということです。復活がなければこのようなことはあり得ません。しかし現実にこの世界に教会が建てられました。教会は神の愛を受けるところであり、愛を実践するところです。

主は復活して、私たちを救ってくださる救い主として今もお働きになっています。そのことに目覚める日が今日のイースター(復活祭)です。この日に、この礼拝の中で、二人の方が信仰を告白し、洗礼を受けて私たち神の家族に加わります。お二人の喜びが私たちにも分け与えられます。私たちは大きな恵みをいただくのです。

主は復活されました。復活なさって、死も恐れも破られました。主がガリラヤからエルサレムまでユダヤの全土で宣教されたことや行ったしるしを思い起こします。イエス様が「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」と言われた言葉を私たちも耳にしました。私たちには復活のイエス様、キリストが共にいてくださいます。