4月27日礼拝説教「信じて感謝しよう」

聖書 詩編 118編22~29節、ヨハネによる福音書 20章19~21節

今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。(詩編118:24)

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

「信じて感謝しよう」

先週のイースター礼拝で私たちは日曜日の朝早くにイエス様のお墓に行った女性たちが墓の中にイエス様の体がないことを発見し、そして天使たちが彼女たちに「あの方は復活なさった」と告げた言葉を聞きました。これがイエス様の復活を最初に知った女性たちに起きた出来事でした。

本日はその日の夕方にエルサレムの都の中で、とある家に隠れていた弟子たちのところに復活のイエス様・キリストが来られて「あなた方に平安があるように」と言われた出来事を耳にしました。キリストが来られた時、弟子たちは主を見て喜びました。主の復活は喜びの出来事です。

本日は旧約聖書の詩編118編の詩も読まれました。24節「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」と記されているようにこの詩は喜びが記されています。復活のイエス様・キリストと出会った弟子たちは恐れが取り払われ、喜びに満ちていましたから、もしかすると詩編118編のように喜びを表したかもしれません。

詩編118編は秋の収穫祭でありエジプト脱出を祝う仮庵の祭りにおいて礼拝で交互に歌われた詩です。全体を概観すると、1節から4節は先ほど詩編交読で私たちが交互に読んだ賛美と同じような賛美が歌われています。5節から21節は王が歌う感謝の歌です。苦しめられても主が力ある業を示されることを歌っています。そして22節から25節は王の賛美に会衆の賛美が加わり、賛美が大きく広がります。最後の26節から29節は祭司たちが神殿に入る人々に祝福の言葉をかけ、人々にに祭壇のまわりに来るように勧め、恵み深い主に感謝するように告げています。

本日与えられた22節以下を読んでまいりましょう。22節と23節「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと」。これはマタイによる福音書21節42節に引用されています。家を支える隅石は特別念入りに選ばれた良い固い石だけが用いられました。しかしこの詩に歌われているのは捨てられた石のことです。この石は大工によって一旦は捨てられましたが、家を支える隅の親石となったのです。この比喩は、人の運命が変わったことを表しています。人からは捨てられ、軽蔑され、迫害されましたが、神によって救われ、認められ、特別重要な職務をになう者とされました。旧約の人々はこの歌をメシアの到来と解釈していました。

24節「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」は喜びの歌です。礼拝に集った人々は神の勝利を喜んでいます。そして「主の日」を祝う喜ばしい礼拝をおこなっています。感謝は次第に、25節の「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」と祈る歌になりました。

26節には「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」と歌われています。礼拝する人々が聖所の内部に入ってきて祭司たちから祝福の言葉をもって迎えられるのです。

27節「主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。」の前半の言葉は、宗教改革者カルバンによると、聖所におられる神に対して祭司も会衆も信仰を証ししている言葉です。そして後半の「祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。」というのは祭壇の周りを踊りまわるようにという祭司の言葉であり、祭壇の角に触ることは祭壇の神聖さが踊る人々に伝わるように、という意味だそうです。この節を新しい聖書協会共同訳「祭壇の角のところまで、枝を手に祭りの行列を組め。」と訳しており、カルバンの説明に近い様子が描かれています。

喜び踊るというのは私たちの礼拝の姿とはかけ離れているように思われるかもしれませんが、日曜日・主の日に礼拝することは主の復活をお祝いすることから始まっていますから、礼拝は喜びであることは現代でも同じです。私たちは心の中で躍り上がるほどに喜んで礼拝しているということなのです。復活の主キリストに出会った弟子たちの喜びもこのようなものであったのではないかと思われます。

28節の「あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。」というのは祭司の感謝の言葉であり、29節の「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」という言葉は会衆の合唱による感謝の言葉です。この言葉によって神の恵みがもう一度すべての人の目の前に立ち現れてきます。人々はその恵みに依り頼み、どんな困難にあってもそれによって慰められるのです。この詩は神を賛美する歌です。礼拝に集うすべての人はこの詩によって神の永遠の救いと恵みについて証しすることができるのです。

さて、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて戸を閉めて潜んでいましたが、復活の主キリストはその真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われました。この言葉は当時の挨拶の言葉でしたが、主は2度もこの言葉を弟子たちに与えています。つまり主はこの言葉によって弟子たちの恐怖を取り去り平安を与えたのです。そして弟子たちに「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と告げて、弟子たちを福音宣教者として立てられました。「父がわたしをお遣わしになったように」と言われましたから、主の言葉と行いは父の御心と同じであることが示されています。

イエス様は隔ての壁を取り壊されました。エフェソの信徒への手紙2章14節、15節には「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」と記されています。その最大の壁は 死でした。人間にとって死は決して戻ることのできない壁です。この壁さえも完全な人間となられ、さらに復活されたイエス様・キリストは打ち破ったのです。

現在、私たちはこの世界に国と国とが対立し、紛争や戦争が起きているのを見聞きして不安の中にいます。私たちは神の愛を信じ、キリストの救いの恵みを信じ、聖霊の力を信じているはずなのに恐れを抱いています。米国のキリスト教福音派の人々の中には、異なる価値観に生きる人々を排除することを正当化するために「聖書には“統合”という文字は見当たらない」とか、あるいは「神はいつも壁を作って来た」と発言し、分断を正当化する人がいます。共通の敵をアピールすることで集団の中の不満を抑え団結力を高めるというのは、かつてのドイツのナチス政権のユダヤ人政策に典型的に表れているように、いつの時代にも、どのような組織にも指導者や為政者が用いたくなる誘惑を持っています。それがいま世界で力を持つようになってきています。

しかし私たちは共に生きることをイエス様から教えられました。「あなたがたに平和があるように」という言葉はすべての人に向けて語られています。私たちは復活の主イエス・キリストが今も私たちと共にいてくださり、私たちに平和を与えてくださっていることに感謝して、不安から平安へと変えられる日々を送りたいと思います。そして分断ではなく共に生きる生き方を選び取りたいと思います。