聖書 ヨハネによる福音書10章22~30節
「わたしと父とは一つである。」(10:30 )
「父の名による救い」
本日私たちに与えられた御言葉ヨハネによる福音書10章22節から30節にはイエス様とユダヤ人たちと「羊」が出てきます。この羊には「私の羊」と「そうではない羊」がいます。今日の箇所の少し前にはイエス様が「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)と言われたことが書かれていますから、羊は人間のことです。11節では羊は二つには分けられておらず羊は羊です。つまりイエス様はすべての人を命を懸けて守ると言われています。その上で本日の箇所でイエス様が「私の羊」と「そうではない羊」と分けているのはユダヤ人たちとの論争を通して私たちに伝えていることがあるということだと思います。イエス様の言葉の意味はどういうことかを考えてみたいと思います。
それでは22節から確認していきたいと思います。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」と記されています。神殿奉献記念祭はユダヤではハヌカと呼ばれ、紀元前2世紀にユダヤ人がエルサレム神殿を外国の勢力から取り返し、再び神にささげたことを祝う8日間のお祝いです。この期間にイエス様はエルサレム神殿の境内のソロモンの回廊を歩いていました(23節)。
その時にあるユダヤ人たちがイエス様を取り囲んだのです。そしてイエス様に「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(24節)と言いました。なぜユダヤ人たちがこの言葉を言ったのかということが疑問としてわいてきます。少し背景を考えてみたいと思います。
ユダヤ人たちにとって「メシア」とはユダヤをローマ帝国から解放する政治的なメシアのことでした。そして洗礼者ヨハネがイエス様のことを人々に「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(1:15)と証ししたことをおそらく知っていたことだと思います。一方で彼らはイエス様が安息日にベトザタの池で病人をいやした(5:1以下)ことが律法違反だとしてイエス様を殺そうとしました。つまり彼らはイエス様が政治的メシアではないかと思いつつも、律法違反の罪人だとも思っていたので、不安を覚えていたということなのです。それで政治的メシアならはっきりそう言いなさい、と迫ったわけです。
ユダヤ人たちの問いに対してイエス様は「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(25、26節)と答えられました。
イエス様がメシアすなわちキリストであるということはユダヤ人が待ち望んでいる政治的メシアとはかけ離れたものでした。イエス様はすべての人のメシア、まことのメシア、救い主キリストなのです。
権力者や人々を抑圧する人たちにとっても救い主であるというのは理解しにくいかもしれません。私たちは、そのような人は罰せられて当然だと考えます。これはつまり、その人たちが陥っている傲慢の罪から解放して神に従う人に変えてくださるという意味で、まことのメシアなのです。イエス様は傲慢な者に裁きを与えて悔い改めて神に立ち帰るようになさいます。一方で、弱い人や抑圧されている人、病の人には癒しを与えてその人たちをお救いになります。
このことを理解するにはイエス様の言葉を聞かなければなりません。しかしユダヤ人たちはイエス様の言葉を聞いていません。9章にイエス様が生まれつきの盲人をいやした出来事が記されており、彼らもその出来事を見聞きしていたはずです。他のユダヤ人たちが「悪霊に盲人の目が開けられようか。」(10章21節)と言っていたにもかかわらず、彼らは聞く耳を持っていなかった。つまり自分たちの不安な思いに答えを与える出来事を見聞きしていながらイエス様がどのようなお方かを理解することはできませんでした。彼らがイエス様の言われる「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」(25節)という言葉の意味を良く考えるならば、イエス様がまことのメシア、キリストであることが分かるはずですが、それが出来ないのです。彼らは「私の羊ではない」という言葉でイエス様は彼らがイエス様の言葉を聞かないことを指摘しました。これは裁きですけれども、一方でイエス様の言葉と行いとを良く考えて信じる者になるようにという救いの呼びかけでもあります。
27節からは「私の羊」とイエス様が言われるイエス様の声を聞く人たちのことが語られています。
(27節)「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」。
イエス様に従った人たちは父なる神からイエス様に与えられた羊です。だからこの人たちはイエス様の声を聞き、イエス様がどのようなお方であるかを知っています。本日この礼拝に集(つど)っているキリスト者はキリストの羊です。たとえ世の人たちがキリストの言葉に耳を傾けなくても、キリストはご自分の羊たちを知っており、また羊たちもキリストに知られています。
一方、きょうここに集っている方々で洗礼をお受けになっておられない方はキリストが招いておられます。「私の言葉を聞いて、私のところに来なさい」と招いておられます。キリストに従って、守り導いてもらうことを望むならばキリストは喜んで迎えてくださいます。
(28節)「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
ここに信仰のはかり知れない実りがあります。キリストは、わたしたちが信仰を通じて、キリストの羊をご自分の羊小屋に集められる時、その羊たちに確信をもち安心しているようにと望んでおられます。しかし、わたしたちは、この確信が何に依っているのかに注意しなければなりません。この意味はすなわち、キリストがわたしたちの救いの忠実な牧者となるということです。わたしたちの救いはキリストにあります。
キリストはこのことを(29節)「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と告げています。キリスト者と言えども世の荒波の中にいます。そしてまた私たちの内には弱さがあり、わたしたちはたえず死の間近にいます。しかし、私たちを導くキリストはどのようなものよりはるかに力あるお方です。だから、わたしたちは恐れおののく必要がありません。わたしたちを御許に受け入れた神は、私たちを抑圧し思いのままにしようとする罪のすべてを消滅させることができるほどに力強く、揺ぎないお方です。
(30節)「わたしと父とは一つである。」
これはイエス様が短い言葉で端的にご自分と父なる神とは一つであることをお示しになった言葉です。人として肉体を持たれたイエス様、復活後も復活の体を持っておられるイエス様の言葉と行いは、この世界と私たちをお造りになった父なる神とひとつなのです。このキリストが私たちを羊として守って導いてくださいますからこれほど心強いことはありません。
今年1月に開催された千葉県信徒大会で講演された近藤勝彦牧師(元東京神学大学学長)は講演の中で「キリスト者とされたことは実に大きなことであって、それを学び続けて65年、いまだに学びつくせない神の慈愛の大きな恵みだと思います。それは主イエス・キリストのものとされ、神を“アッバ、父よ”と祈る神の子とされたということです」と語りました。この言葉は経験に裏打ちされた真理だと思います。しかし信仰の長さは関係ありません。洗礼の恵みは徐々に私たちの心に広がります。洗礼を受けた時にその人はすでに父なる神と御子イエス様の祝福を受けています。イエス様は「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(27節)と言われます。イエス様が私たちの傍におられますから、私たちはイエス様に従うことができます。讃美歌507番の1節に「主に従うことはなんとうれしいこと。心の空 晴れて光は照るよ。」という歌詞があります。2節には「悪い思い消えて心は澄むよ。」、3節には「おそれのかげきえて力は増すよ。」と書かれています。主に従うことは苦痛ではなく、主が守ってくださるから安心なのです。
キリストはすべての羊をご自分の許に招いておられます。「私の羊」はすでにキリストの許にあり、「そうではない羊」については、この人たちがキリストの言葉を聞いて、キリストの許に来ることを待っておられます。