聖書 ヨハネの黙示録21章1~6節、ヨハネによる福音書13章31~35節
わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21:6)
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。(ヨハネ福音書13:33)
「イエスに倣う者たち」
先日、テレビで『人体シリーズ』という番組を見ました。生命とは何かについて最新の科学が解き明かしたものを顕微鏡写真やコンピューター画像を駆使して目で見てわかるように説明する番組でした。このような目に見えない世界の映像化と黙示はどうちがうでしょうか。私たちはこのことを理解しておかないといけないと思います。
科学は人間の目では見えないものを見ようとしてきました。顕微鏡や望遠鏡はその例ですし、医療現場で使われているX線CTやMRIもその例です。これらは感染予防や病気の発見や治療に役立っています。これは黙示と呼べるかと言うと、そうではありません。この方法はあくまで「見ようとすれば見えるものを見るためのもの」です。
それに対して黙示は「見ようとしても見えないものを譬えなどを使って伝えようとするもの」です。もともと人間には見ることができないものがあります。たとえば愛や友情は見ることができませんが、私たちはそれがあることを知っています。神も神の国もその様な存在です。それを神が私たちに伝えるために黙示録記者のヨハネに幻を見せ、ヨハネはそれを記しました。それが黙示録です。
ヨハネの黙示録は面白い構成です。全部で22章あるうちの1章から20章まではこの世の裁きと滅びの恐怖のイメージが示されていて、最後の21章と22章でようやく新しい天と地そして、キリストの再臨のイメージが示されています。書物の大部分に恐怖のイメージが示されていて、新しい天地が創造されてキリストが再臨されるという希望のイメージはわずかです。しかも黙示録全体は人間にははっきりとは理解できないような黙示という表現で書かれています。主は世の裁きを語って、それを私たち人間がいやというほど知ってから、神の国がこの世の訪れることのイメージを伝えているのです。
本日、私たちが耳にしたのは後半の新しい世界の創造のところです。新しい天と新しい地の黙示的イメージです。ヨハネは「新しい天と新しい地」を見ました(21:1)。ヨハネが見たイメージが1節と2節に書かれています。最初の天と最初の地とは今のこの世界のことです。これらがすべてなくなるのです。天地創造が再び起きて神の国が現れます。どんな天と地かは書かれていませんが、3節の神の言葉からすると、そこは神がおられるところだということが分かります。この世界には神殿ではなく天にある聖なる都、新しいエルサレムが降ってくるのです。
5節で神は「私は万物を新しくする」と言い、6節で「事は成就した。私はアルファでありオメガである」と言われました。すべてが新しくなったとき、神は最終的に「成就した」と告げるのです。つまり神の目的は裁きではなく、新たな創造によって終わります。神がご自身を「アルファとオメガ」と告げるのは、神は創造主として万物を作られ、万物を終末における成就へと導くお方であることを私たちに明らかにする言葉です。この箇所の終末のイメージは神の国が地上に現れることを示しています。
このようなイメージを絵画や映像化する試みがなされてきました。多くの画家やクリエーターが黙示録の文章をもとに絵や映像を作ってきました。それは人間の創作意欲としてもっともなことですし、それらは信仰に基づいて作られたものであることも確かです。しかし黙示は人間の創作する映像の枠を越えています。
さて、私たちはこの神の国のイメージを持って、ヨハネによる福音書の13章31節から35節に聞いてまいりたいと思います。この箇所はイエス様と弟子たちが最後の晩餐をして、イスカリオテのユダが出ていった後に、イエス様が捕らえられる前に弟子たちに与えた新しい掟のことが書かれています。
33節にイエス様は弟子たちに『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』と言われました。これは十字架と復活の後にイエス様が父のもと、すなわち先ほどの黙示録に示されていた神の国にお戻りになることを示唆している言葉です。
イエス様は31節で「今や、人の子は栄光を受けた」とすでに起きたこととして語り、32節では「神も人の子、つまりイエス様に栄光をお与えになる」とこれから起きることとして語っているのは理解するのが難しいところです。これは、31節の「栄光を受けた」は受難、十字架上の死、復活、そして昇天の全体を指していて、32節の「栄光をお与えになる」はイエス様が父のもとに戻ったときに、もたらされる栄光を指していると解釈されています。いずれにしろ、受難も栄光を現す出来事だと、イエス様は語っているのです。
そして34節と35節でイエス様は弟子たちに新しい掟を与えています。これは私たちキリスト者に与えられた掟でもあります。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」このような言葉です。もっと短くすれば「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということです。これは2024年度の年間聖句でした。これはヨハネによる福音書15章12節の御言葉です。イエス様は2度もこの戒めを弟子たちに与えたのです。そしてそれは今日ここに集まっている私たちに与えられたということです。
5月の役員会で教会懇談会のテーマについて話し合いが行われ、伝道について語り合おうということに決まりました。伝道というと大変難しいテーマのように感じるかもしれません。しかし伝道とは「道(福音)を伝える」ことですから難しく考えないほうが良いと思います。私たちは気づかないうちに福音を伝えています。懇談会はそういうことを振り返って語り合い、お互いを良く知る交わりの時になればと思います。
ペトロはエルサレム神殿の「美しい門」に座っていた足の不自由な人に一番良いものをあげたいと願いました。そして「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とその人に言いました。その人がキリストの名を信じて立ち上がろうとすると足やくるぶしがしっかりして、立ち上がり歩きだしました(使徒3:1以下)。彼は足が動くようになったことだけではなく、自分のことを愛してくれる人を知ったことが嬉しかったのです。豊かな人間関係は相手の人と無償の愛でつながることだと思います。イエス様は「互いに愛し合いなさい」と命じられました。それは「わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネ13:34)というイエス様の行いが先行しています。私たちはイエス様に倣うのです。
伝道で大切なことは主が先だってお働きになっておられることを信じることだと思います。ペトロたちは夜中、漁をしても何も捕れませんでしたが、主の声に従って網を投げると大量の魚が捕れました(ヨハネ21:1以下)。その時は主にお任せしましょう。これは無責任な考えではなく主を信じる信仰によるものです。一番良いものをあげたいと願い、無償の愛をもって人と接するならば、それはきっと良い証しになり、そこに主が働いてくださいます。