聖書 ヨハネの黙示録22章1~5節、ヨハネによる福音書14章25~28節
黙示録22:3-4 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
ヨハネ福音書14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
「父のもとに行くイエス」
イエス様は「世が与える平和」とは違う「平和」を与えると言われました。イエス様が与える平和、すなわちキリストの平和とはどのようなものかという疑問が私たちに与えられました。主が与える平和とは何でしょうか。日本が隣の国々と仲よくやっていられるということでしょうか。日本に住む人が政治に信頼し、不平不満がないようにうまくやっていることでしょうか。治安が良くて誰もが安心して暮らせることでしょうか。家庭で上手に家計をやりくりして、一家団欒のひとときを過ごすことでしょうか。
ここで弟子たちのことを思い出してみたいと思います。弟子たちはイエス様の言葉に送り出されて出て行きましたが、弟子たちの誰ひとりとしてそのような「世が与える平和」に与ることはありませんでした。弟子たちは海を越え山を越えて、艱難辛苦に耐え、いじめられ、捕まえられ、 辱められ、そして遂には、殉教の死をも耐えなければなりませんでした。そのような生活のどこに平和があるのかと私たちは心の中で思います。弟子たちは私たちの目から見ればキリストの平和とは対極にある惨めな苦労の連続の人生でした。しかし彼らはキリストの平和の中にいたのです。使徒パウロの手紙に次のような言葉があります。コリントの信徒への手紙第2の6章5節から10節です。
私は大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
前半にはパウロの尋常ではない労苦が記されています。しかし後半にはパウロの心にキリストの平和があることが読み取れる言葉が記されています。パウロは物乞いのようでしたが多くの人を富ませていました。それはお金によってではなく、イエス様の福音によってでした。パウロは何も持っていないのにすべてを持っていました。それは神との親しい交わりの中にすべてがありました。これがキリストの平和です。パウロは主によって心が満たされています。労苦の中で平和が与えられています。
もう一つフィリピの信徒への手紙2章13節から16節にパウロは次のように書いています。
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
パウロは十字架にかかる前にはイエス様に敵対していた人ですが、復活のイエス様に出会って生き方が変えられ、イエス様の弟子として苦労を厭わず福音を宣べ伝え人生を全うした人でした。なぜそのような平和が与えられたのでしょうか。
イエス様は「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)と言われます。聖霊が弟子たちに与えられました。そして私たちにも与えられています。聖霊は私たちににすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださいます(同26節)。
私たちはすべての困難や労苦の中で十分な助けをいただいているのです。なぜなら聖霊は、神の明るい光の中にあり、私たちに神とこの世を知るのに必要なすべてのものを与えてくださるからです。聖霊はイエス様の言葉をふさわしい時に私たちの心に思いおこさせ、言葉の中に含まれる真理と義を私たちのものとしてくださいます。
イエス様は復活した後、天に上られました。それは弟子たちにとってイエス様との別れの時でした。
ヨハネ14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
イエス様にとって父のもとに行くことは、いのち・栄光・力を現わしています。イエス様は父と一体のうちに天にあって羊飼としての務めを全うされています。「私は父のもとに行く」とのイエス様の言葉は、弟子たちの心の中に強い喜びを呼び起こすのです。
復活の主イエス・キリストが再び来られるときの新しい天と地の様子は黙示録に記されています。そこには命の川が流れ、両岸に命の木があります。もはや呪いはありません(黙示録22;1-3)。これが神の現実です。キリスト者はこのような神の現実から現在の世界を見る目を与えられています。
黙示録22:1-2 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
都がその光として神をもち夜がないように、いのちがまた尽きることのない豊かさをもって都を流れます。黙示録記者ヨハネはそのことを、旧約の預言によって与えられた二つの比喩をもって語っています。それは、預言者エゼキエルとゼカリヤの語った、いのちを与える流れのたとえです。
エゼ 47:1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
エゼ 47:7 わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。
エゼ 47:12 川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」
また創世記二章に記された命を与える木の譬えがそうです。
創 2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
この二つは、キリスト者を永遠の命として支えていて、弱さや病や死がキリスト者に影響を与えることができないことを明らかにしています。父とキリストの玉座から、命が流れ出てきます。神は私たちのいのちの根源です。主の御旨に従った人々は、その命をもちます。
黙示録22:3-5 もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
その時、神の怒り・呪い・裁きをきたらす一切のものは取り除かれます。この結びの文章はもう一度、すべての約束の核心とすべての祝福の根拠をはっきりと語っています。神の玉座のまわりには、信仰者が生きている者も死んだ者も群れをなしています。その人々は、神と共にあり、神に仕え、神を礼拝し、さまたげられることのない無償の愛の交わりのうちにいます。
復活の主キリストは天に上られましたが弁護者である聖霊が私たちに遣わされていて、私たちにすべてのことを教え、キリストの言葉をことごとく思い起こさせてくださいます。だから私たちは平和でいられます。私たちはこの世にあってすでに神の国にいるようなものです。キリストの平和が私たちを支配しますように。