聖書 ヨハネによる福音書 17章20~26節
ヨハネ17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
「イエスの祈り」
私は5月17日土曜日に社団法人日本国際ギデオン協会が主催する「教会のための祈りの会」に西千葉教会の真壁先生と一緒に出席しました。日本国際ギデオン協会は会員が聖書を配る奉仕をしている団体で、会員は献金して聖書を買い求め、それを自分たちで学校やホテルに配布する活動をしています。会員は月に1回、支部ごとに集まり、聖書を読んで祈る会を持っています。この教会にも受付のところにギデオン協会の聖書が置いてあり、必要な人はそれを無料で持っていって読むことができます。私は信徒の頃にギデオン会員として聖書配布に参加していました。今は夫婦でギデオンフレンズというサポーター会員になって活動を支えています。
千葉県にはいろいろな教派や教団の教会があります。成田空港周辺にある教会の牧師は日本人と日本に住んでいる外国人がともに礼拝をしていることを分かち合ってくれました。また南米から日本に来て働いている人たちが母国語で礼拝する教会の牧師も参加していました。
真壁先生は礼拝の1時間前に来て礼拝堂に座って礼拝を待っている高齢の信徒の方を紹介しました。その方は「私は椅子を温めるだけの奉仕しかできません」と仰っているそうですが、真壁先生はその姿勢を大切になさっていました。そして最近、千葉大の女子学生が礼拝に参加して聖歌隊に入りたいと申し出てくださったけれども、その後に来なくなったそうで、その高齢者と女性のために祈って欲しいと願いました。
私は土気あすみが丘教会が昨年度創立40周年を迎え、宣教40年教会ビジョンを決めて、それに向けて活動していることを紹介しました。これは①互いに愛する教会、②宣教する教会、③開かれた教会という幻です。この幻を具体化するにはどのようにしたらよいか皆で模索しているので、このことを祈りで支えて欲しいとお願いしました。
そこに集まったギデオン会員や参加した牧師の皆さんがそれぞれの教会のために祈りを捧げました。
私はギデオン会員や他教会の牧師から祈ってもらうことを通して、主はキリスト者をひとつにしておられるのだということを感じました。他者の祈りは私たちを力づけます。他教会と土気あすみが丘教会の祈りの課題は違いますが、千葉の地に福音を広めたいという願いや多くの人が信仰の家族に加わってもらいたいという願いは同じだと思いました。それぞれの地にある教会は孤独に労苦しているのではなく、互いの労苦を知りながら無償の愛の交わりを深めて奉仕をしているのだということを知って励まされました。
イエス様はキリストの弟子、つまり洗礼を受けてイエス様に倣う生き方をするキリスト者たちが「ひとつ」になることを願い祈られました。21節でイエス様は父に「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(21節)と祈っています。「すべての人」というのですからキリスト者だけではありません。すべての人がひとつになるために、人々が父なる神と御子イエス様を信じるように祈っておられます。
また22節には「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」(22節)と祈っています。私たちに与えられた栄光とは何でしょうか。それは「イエス様の父の名」であります。私たちはどのように父なる神の名を知っているかといえば、「イエス・キリストの父」であり、私たちが親しく「アッバ、父よ」つまり「おとうさん」と呼ぶことのできるお方であるということです。
このことはキリスト者が「神の子」とされたということなのです。イエス様はこんなに大きな栄光を私たちに与えてくださったのです。私たちは神の養子とされたということであって神になったわけではありませんが、土から造られた人間がそのような地位を与えられたのです。神の子は主なる神から無償の愛を注がれて満たされています。私たちはこの世の不条理に振り回されることがあり、また私たち自身の中にある罪が私たちを支配して悪を働かせることがありますが、それでも私たちは神の愛によって満たされ豊かな交わりを持つことができるのです。
23節には「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(23節)という祈りが記されています。私たちが不完全でひとつになれない時でもイエス様と父なる神は聖霊とともに私たちの内にいてくださり、私たちが完全にひとつになるようにしてくださいます。
キリスト者がひとつになることができるのはイエス様の苦しみが満ち溢れて私たちに迫り、それによって私たちの受ける慰めが満ち溢れるからです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙2の1章4節から6節に次のように書いています。
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。
このキリストの苦しみとは十字架の苦しみであります。罪に絡み取られている人間を罪から解放し救うために、イエス様は十字架にかかってご自分を罪の贖いとしてささげられました。その苦しみが満ち溢れて私たちに及んできます。イエス様は復活して天に上られました。そして父なる神の右にお座りになり、世を支配しておられます。そして私たちのために祈っておられます。
日本キリスト教団出版局発行の『余白の旅―思索のあと』という本があります。その本に井上洋治神父は「御霊の風」という文章を書いています。私なりの言葉にすると次のようになります。
心の奥に後ろめたさとある種の空しさとを感じる。しかも弱さに負けてしまう人間の哀しさというものが心の中を吹きぬけていくようになった。そのようなとき、私は「何とこの世界は多くの哀しみに満ちているものなのか」と思わざるをえなかった。
しかし同時に、もし私のような者でさえ、人間の弱さや哀しみというものに何らかの痛みといとおしさとを覚えるのだから、まして神は人間の哀しみや弱さを受け入れてくださらないはずはない。この確信は次第に岩のように固く私の心を支配していった。
こんな文章です。現実には大きな不条理があり、神はどこにおられるのか、と問いたい思いにさせられます。しかし、そのような私たちであっても「人の弱さや哀しみに何らかの痛みを覚える」わけです。涙が流れるのです。悲しみが心にあふれます。しかし私たちは孤独ではありません。私たちの悲しみや苦しみを知ってくださるお方がおられます。それが救い主イエス・キリストです。キリストは私たちの悲しみや苦しみを癒してくださいます。なぜなら人間の弱さや哀しみを知っておられるからです。
私たちが神の憐れみを確信し、見えないけれども信仰を同じにする人々と労苦を共にすることを可能にしてくださるのは、イエス様が父に願って私たちに降してくださった聖霊のお働きによるものです。聖霊は私たちをひとつにしてくださいます。イエス様は世界中の人々がひとつになるように祈ってくださいました。そして今も天上で私たちのために祈っておられます。