民数記21:4~9
ヨハネによる福音書3:1~21
先々週、AH兄を主の御許に送ったばかりですが、一昨年の平和聖日にお迎えした、内藤留幸先生が、一昨日金曜日に天に召されたとのことを知りました。二年前の夏、暑い中、二時間以上も掛けて、土気までお越しいただきました。その時、癌を患っておられるということを、ひとこと申されたことを覚えています。土気あすみが丘教会のことを憶えてくださり、時々、お便りをくださっていましたが、ある時期からこちらからお便りをしてもお返事がいただけなくなりました。『信徒の友』に、毎月執筆をしておられましたので、お元気でいらっしゃるのだろうと祈っておりましたが、時が来て、遂に御許に召されたことを知りました。最期まで病をお持ちになりながらも、闘いぬかれたことを思います。
三年前の丁度この時期、安藤肇先生、昨年のこの時期に石井錦一先生と、私たちの教会がお世話になった先生方が召される度に、それぞれご高齢で病も持っておられたけれど、最期まで戦い抜かれ、走り抜かれ、そのまま走り抜かれてどこへ行かれてしまったんだろう?と思ったりするほどの生き様であったことを思います。命のある限り、神と人とに仕えて歩まれた人生であられましたが、しかし、きっと、生まれた始めからそうだったのではないのだと思います。肉として生まれ、人生のある時期に、イエス・キリストにそれぞれ出会われ、水と霊によって新しく生まれる経験をされ、そして新たにされた命を神に献げて生き、そのままに駆け抜けられ、天の国・神の国へと旅立たれたのだと思います。水と霊によって新たにされた命は、そのまま神のもの、神と共にある永遠の命でありますので、肉体の死は、ひとつの通過点として、神の国へと迎え入れられたことを思います。
このことは、勿論牧師だけでなく、イエス・キリストを信じ、罪を悔い改め、洗礼を受け、礼拝によって養われる民であられるここにおられるお一人お一人に於いても同様です。洗礼によって、私たちはキリストの十字架と共に罪に死に、キリストの復活と共に新しく生まれさせられた者と既にならせていただいています。
この命の恵みを尊び、救いの確信を持って日々を歩んでいただきたいと、願っています。
それにしても、人は世に生きて、そして死にます。「死」という問題は、誰しも避けて通ることが出来ず、一般に、人が死に対して抱く苦しみ、特定の信仰を持っていない多くの日本人にとっての死とは、「すべての終わり」という考え方とつながっていきます。「永遠に無」になるという、いわば深い淵に陥るような出来事と捉えられていると思います。
おそらく、またすべての人間にとって死とは、人生の最大の問題であり、恐れとも言ってよいでしょう
今日の御言葉に登場するニコデモに於いては、一般の日本人とは少し状況が違っていました。ニコデモはファリサイ派のユダヤ人で、「永遠の命」ということを、神の言葉として知っておりました。そして、永遠の命に与るために、日々、自分自身を律し整えていた人であったことでしょう。しかし、彼は、今の自分のあり方に、また「生きる」ということに、何か今のままでは欠けている「何か」を感じていた人として、イエス様の許にやって来たと思われます。
時間は夜。ニコデモとイエス様の対話は、夜の対話とでも言いましょうか。ちなみに4章でサマリアの女とイエス様の対話が展開されて行きますが、これは真昼の対話です。夜というのは、日常を離れた対話と言えましょう。自分の日々の生活、日常を離れ、しかし、日常の中では解決の出来ない問題に思いを巡らせる時間であり、また夜の闇に隠れる、という意味合いもありましょう。
ニコデモはファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員でありました。ここで議員とは、大祭司を議長とするユダヤ人の最高法院の議員のことです。神の民としての自負があるユダヤ人社会における宗教的、政治的な最高会議の議員は非常に高い地位の人間であり、権威と名誉を持っていた人間です。もちろん高度な教育を受けていたでしょう。その彼が、先週のお読みましたように、イエス様が過越祭の期間中にエルサレムでなさったいくつものしるしを見て、なんとかしてイエス様に会いたいと思って、敢えて夜、やってきたのです。
ファリサイ派ユダヤ人という人たちは、イエス様の生きられた時代の200年近く前から、「永遠の命」への希望を持つ人々でした。信仰を守ろうとするがゆえに迫害をされたのは、初代のキリスト教徒だけではなく、ユダヤ人も同様でした。近隣諸国からのさまざまな迫害に遭い、迫害が強まり、親しい人たちの理不尽な死に遭遇するようになりました。説明がつかない理不尽は悲しみから生まれる痛みは、神のご支配が見えないという呻きの痛みです。
神はその嘆きに答える如く、ダニエル書12章2節「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の救いに入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」という御言葉を与えられました。ファリサイ派の人々は、世の悲しみを超えて、この御言葉を信じ、世の命を超えた永遠の命に希望を持つようになりました。そして永遠の命を得るために必要なことは、律法を守ることだということを信じて、それらすべてを厳格に守って生きようとしていました。
彼らは、律法を守れない人間は罪人であるから、神に裁かれて永遠の命は受けられない。しかし、律法を守っている自分達は清い者たちであり、義しい者たちであり、その清さ、義しさによって神に認められ、死後に神の国、天国に迎え入れられる、永遠の命を得ると信じていたのです。
先週お話しいたしました部分の後半2章25節以下は、一説には3章に繋がっているという説があります。「イエス様は人間の心の中に何があるかをよく知っておられたからである」、というのは、3章のニコデモとの会話の前触れであるというのです。
確かにそうなのだと思います。今日の箇所で、イエス様はニコデモのイエス様の前での第一声「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」という言葉は、問いかけ、質問の言葉ではありません。しかし、人の心の中に何があるかよくご存知のイエス様は、ニコデモがこれから語ろうとしていることを、質問のある前から知り、答えられるのです。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。
ニコデモは、ファリサイ派の地位の高い議員で、厳格に律法を守り、神の国、永遠の命を求め生活をしていた人でしたが、心にどこか空虚なもの、心の渇きを持っていたのではないでしょうか。ここから始まる会話は、ニコデモの、言葉に出来ないような心の飢え渇きへの答えであったに違いありません。
しかしニコデモは、イエス様の行われた「しるし」を見て、イエス様のもとにやってきた人です。敢えて、人目につかない夜を選び、夜の闇に隠れて、評判の、またユダヤ人にとっては訝しげな目で見られているイエスという人のもとに、「ラビ=先生」という、ある意味恭しく、イエス様を持ち上げる言葉を用いて、語りかける人です。
2:24で「しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった」と語られていますが、「しるしを見て」、敢えて夜にやって来たニコデモは、「信用出来ない人」の代表であるのかもしれません。
しかし、イエス様は「信用出来ない人」ニコデモに対して、真実の言葉で返されるのです。それは、イエス様の世に遣わされた使命は「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る」ためであったからでありましょう。主は人が命を得る言葉を返されます。一人の頑固な人、ニコデモを救うための言葉であり、それは私たちひとりひとりに向けての言葉にもなります。
イエス様の真実の言葉「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」に対し、ニコデモは申します。「年をとった者が、どうして生まれることが出来るでしょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか」と。素朴で、現実的な答えです。それはそうでしょう。律法を守ることで永遠の命を得られると信じて、それを実行していたファリサイ派ユダヤ人です。命の希望を、自分たちの世の現実でしか、行いによってしか、捉えることが出来ずにいる人です。
イエス様は申されます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」と。
水と霊、これは明らかに悔い改めの水による洗礼と、聖霊による刷新、聖霊による洗礼をイエス様は語っておられます。
「肉から生まれた者は肉である」と6節でイエス様が語っておられることは、罪の中に人間が生まれていることを語られており、罪の中にあるままでは、神の国を見ることが出来ないということを語っておられます。罪の中に生まれたままの人間が、世の行い=律法を守ることによっては神の国を見ることは出来ない、そのことも暗に語っておられます。肉=罪は新しく生まれなければ、取り去ることは出来ない、霊によって新しく生まれなければ、神の国を見ることは、永遠の命を受け取ることは出来ないのです。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)
この御言葉を、宗教改革者マルチン・ルターは、「聖書のミニチュア」と呼んだのだそうです。この御言葉にこそ、福音のすべてが詰まっている、その意味です。
またイエス様は、少し前の14節では、永遠の命について、次のように語られています。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。
モーセが荒れ野で蛇を上げた―これは、今日の旧約朗読民数記21章の出来事を指します。
出エジプトをしたイスラエルの民が罪を犯した時、神は蛇を人々の間に送り、罪を犯した者たちを噛みました。イスラエルの民は、耐え難く思い、自分の罪を認め、罪の悔い改めを願うのです。そのとき、神はその蛇を旗竿の先に掲げて人々に見せることをお求めになりました。モーセはそのようにいたしました。すると、イスラエルの民に与えられた、罪の審きのしるしであった蛇は、悔い改めた者が、これを仰ぎ見た時、逆に命をもたらすものとなりました。
青銅の蛇とは、悔い改めによって、罪あるものが、赦され、命を得ることのしるしです。
イエス様は、この青銅の蛇を、ご自身の十字架になぞらえて語っておられます。神の御子であられるイエス様が、十字架に架けられ、蛇がモーセによって上げられたように、上げられなければならない。それは、罪ある人間が、罪を悔い改め、御子イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの十字架を見上げた時、罪を赦され、永遠の命を受けるということです。さらに、キリストは、死から蘇り復活し、天に上げられる、そのことも指し示しています。
主なる神は、ご自身の造られた世を愛しておられます。聖書は愛を、神の愛を語ります。しかし、愛というのはただ楽しく幸せなことだけではない。愛が深ければ深いほど、痛みを伴うと言っても過言ではないのではないでしょうか。愛する人の痛みは、自分のことのように痛いことがあります。もし、小さな我が子が病気で苦しむことがあったとしたら、親は「自分がこの苦しみを代わりたい」とすら思うことでしょう。
主なる神は、世を、世にある罪ある人間、肉に生まれた人間を愛しておられます。主は世を、人間を愛するがゆえに苦しまれました。
主なる神の、私たち人間を狂おしいまでに愛する葛藤を、旧約聖書は語っています。人間は神を忘れ、それぞれ自分の思う道を奔放に生きていますが、神は、人間が肉に生まれたままでは、そのまま滅んでゆくことを誰よりも知っておられます。神は人間に気づかせようと律法を与えましたが、律法によっては、人間の罪を拭い去ることは出来なかった。神はある時、人間が変わらないならば、ご自身を変えられようと決心されました。
このことは、旧約聖書ホセア書11章で語られています。8節をお読みします。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。(中略)私は激しく心を動かされ、憐れみに胸が焼かれる」
この「私は激しく心を動かされ」という言葉は、上と下をひっくり返すという意味の言葉です。ここは「神の回心」とも語られる箇所で、人間が変わらないなら、ご自身が変わる決意をされた、という箇所と言われています。
人間を救うために心を上下ひっくり返され、御自身の心を変えようとされた神が何をなすことを決意されたか、それは神の独り子=神ご自身であられる御子を、世に遣わし、御子を十字架の上に上げることによって、十字架の御子を信じ、自らの罪の悔い改めをするすべての人の罪を、御子の十字架の上で滅ぼし、罪を赦し、永遠の命を与えるという方法でした。罪によって死に滅びに定められた人間に代わって、三位一体の神ご自身である神の御子イエス・キリストが、苦しまれ、血を流し、死ぬ。その苦しみを主なる神は御子にお与えになり、世にある人間は、御子イエス・キリストを信じる信仰によって、罪に死に、キリストの復活と共に新しい神と共にある命に生かされる。その道を、神ご自身が、その愛によって、愛の故に大きな犠牲と痛みを伴われながら、拓かれたのです。
もう一度、3章16節をお読みいたします。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
この、神ご自身が、激しいまでの痛みと苦しみをもって拓かれた、人間に対する救いをご自身のものとして受け、神と共にある命―永遠の命を既に受けている者として、世の命を超えて、神の国への希望を抱きつつ、信仰によって与えられた新しい命を、神に喜ばれる賜物として、世の戦いを戦い抜き、闇ではなく光の道を選び、歩むものであらせていただきたいと心から願うものです。
最後に、次にニコデモが出てくるのは、7章、さらに主イエスが墓に葬られる時です。ニコデモは、イエス様を葬るための没薬と沈香を持って来て、イエス様の葬りに立ち会います。ニコデモは、この夜の対話によって、救われて、イエス・キリストを信じる人に変えられた、そのことも覚えたいと思います。