6月8日ペンテコステ礼拝説教「真理の霊が降る」

聖書 使徒言行録2章1~11節、ヨハネによる福音書14章15~20節

使徒2:1-4 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

ヨハネ14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

「真理の霊が降る」

今日は聖霊降臨をお祝いする聖霊降臨日・ペンテコステのお祝いの礼拝です。クリスマスにクリスマスツリー、イースターに卵やうさぎといったシンボルがあるように、ペンテコステにもシンボルがあります。まずシンボルカラーは赤色です。使徒言行録2章3節の「炎のような舌」という言葉から赤色がシンボルカラーになりました。また鳩のシンボルがあります。これはイエス様が洗礼を受けられた時に聖霊が鳩のように降って来た(ルカ3:22)と書かれている事に由来しています。

この聖霊のことをイエス様は弁護者(パラクレーシス)と言っています(ヨハネ14:16)。パラクレーシスは「慰める人」という意味がありますから、聖霊は私たちを守ってくださるお方というだけでなく、慰めるお方であります。この聖霊は「真理の霊」です。私たちが真理という言葉を聞いて思い出すのはヨハネによる福音書8章31,32節に記されている、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」というイエス様の言葉です。この言葉から、聖霊は私たちがイエス様の言葉にとどまるように守ってくださるお方であることがわかります。

またイエス様は真理についてヨハネによる福音書14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われています。この言葉からすると真理の霊は「キリストの霊」であり、このキリストの霊である聖霊によらなければまことの父のもとに行けないということが分かります。逆に言えば私たちに降された聖霊に従えばまことの父のもとに行けるということがわかります。

 

聖霊降臨の出来事は使徒言行録2章に記されているように、ユダヤのお祭りである七週際に起りました。使徒言行録では五旬祭(ペンテコステ)と書かれています。このユダヤの七週際はユダヤの民がシナイ山で律法を与えられたことを記念するお祝いで、過越祭から足掛け50日目に祝われました。七週際を神が制定したことについてはたとえば民数記28章に記されています。ペンテコステという言葉はギリシア語で50を意味する言葉で、聖霊降臨という意味ではありませんが、その日に聖霊が降ったことを記念してペンテコステと呼ばれるようになりました。聖霊が降って弟子たちに起きた変化は「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)ということでした。これは真理の霊のなせる業です。

さて、この記事は弟子たちが複数の言語を話すことができるマルチリンガルになったことを伝えているのでしょうか。旧約聖書の創世記の中のバベルの塔の出来事(創11章)で神が人間の言葉を混乱させたが、この聖霊降臨の出来事によって再び人間の言葉の混乱が収まったということという理解があります。しかし聖霊降臨によって人間の言葉がひとつになったというわけではありません。

そうすると使徒言行録2章4節の「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というのは何を意味しているでしょうか。これは福音が言葉の違う民族にも宣べ伝えられるようになったということを表しています。2章1節から11節にはそのことは書かれていませんけれども、たとえば、この後に続くペトロの説教では、このことがはっきりと示されています。2章24節に「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。」と示されています。「主は復活した」ということが福音なのです。1章22節には「主の復活の証人」という言葉が記されています。

 

イエス様の復活は「神が死に勝利された」というしるしです。一コリ15章54節以下には「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」というパウロの言葉が記されています。死は私たちから愛する人を奪ってしまいますが、神はその死を無力化して何の意味もないものにされました。そのことによって私たちの死もまた同じように無力化され意味のないものにされたのです。

使徒言行録24章15節には「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」とパウロが語ったことが記されています。これは神の言葉です。なぜパウロはこの希望を抱くことができたかと言えば、「真理の霊」がイエス様の復活の真理を弟子たちに教えてくださったからです。

聖霊が降った弟子たちは世の権力者の前でも大胆に証ししました。ペトロとヨハネが議会で尋問を受けた時の出来事が使徒言行録4章に記されています。そこで議員たちは二人の「大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚きました」(4:13)。この大胆な態度というのは「自由に発言する」ということです。律法の権威者や権力者たちの前でも「主が復活したこと、そして人も復活の約束のもとに置かれていること」を大胆に告げ知らせたのです。

 

先日、私たちの愛する少年の葬儀が執り行われました。死は突然、その少年に襲いかかり、愛する者のもとから奪っていってしまいました。突然にです。思いもよらぬ形で別れなければなりませんでした。哀惜の思いは募ります。死は勝利したかのように思われました。しかし葬儀の礼拝において神は復活の約束を私たちに告げました。

確かに私たちはこの神の言葉を聞いたのです。しかしどうしたらこの言葉を「確かにその通り」と信じることができるでしょうか。このことについて使徒パウロがコリントの信徒への手紙第1の13章12節以下に書いている言葉が思い浮かびます。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

昔の鏡はぼんやりとおぼろげにしかにしか写りませんから、はっきりと見ることができませんでした。パウロはこのような鏡をたとえにして、私たちが今は一部しか知らなくても、真理の霊が教えてくださることを信じれば良いということを伝えています。これで良いのではないでしょうか。真理の霊はキリストの言葉を語ります。真理の霊がキリストの言葉を私たちに語らせてくださいます。その言葉によって私たちは慰めを受け、決して失われることのない希望を持ちながら、一緒に神の国へ旅していきましょう。