聖書 箴言8章22~31節、ヨハネによる福音書16章12~15節
箴言8:23 永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。
ヨハネ16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
「真理を悟らせる聖霊」
今日は教会の暦で三位一体主日です。三位一体とは父・子・聖霊がそれぞれ存在しつつひとつであることを表すキリスト教の言葉です。私は昨年、出身神学校の新約聖書神学ゼミという牧師が参加するゼミに参加して三位一体の神学について深く学ぶ機会を得ました。そこで一番強く心に残ったのは、「礼拝とは聖霊を通して、復活のイエス様、キリストと父との交わりに加えていただく賜物、プレゼントである」ということでした。
もし神がこの世界をお造りになった父だけであれば、礼拝とはイエス様や聖霊の神なしで、父なる神の前で私たち人間だけが行うものになってしまいます。私たちの献げ物が唯一の献げ物であり、私たちの執り成しの祈りが唯一の執り成しの祈りということになります。私たちが不完全であることを認めるならば、この献げ物や祈りは何と心細いものでしょうか。しかし三位一体の神のもとでは私たちが献げる礼拝は私たちの貧しさを完全に覆い、豊かな礼拝になります。豊かな礼拝は私たちの生活を豊かにします。イエス様が聖霊を通して私たちと一緒にいてくださることを覚えることができるからです。
本日の御言葉に聞いてまいりたいと思います。箴言8章は「知恵」が人格を持つ存在として示されています。箴言8章1節に「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。」という言葉が書かれています。そして22節以下の「わたし」とは知恵と英知が人格として表現されています。22節から31節には知恵と英知が世界の創造の前から存在していたことが示されています。22節に「主は…私を造られた」とありますが、これは原典に近づけると「主は…私を得ていた」となります。24節と25節の「わたしは生み出されていた」は「私は連れて来られた」という意味でもあります。つまり、この世界が作られる前から知恵と英知は存在していたということが述べられているのです。この知恵と英知はキリストと聖霊のシンボルと考えられています。
23節の「永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。」の祝別という言葉はほとんど使われない言葉ですが、意味は王や預言者に行われる「油注ぎを受けた」というもので、油を注がれることによって、そのお方は人間の罪を贖ってくださるお方、また人間を慰めてくださるお方になられたことを示しています。そのことが行われたのは25節から29節にあるように世界がまだ創造される前でした。
ここに書かれている「主」とはアブラハムに直接声をかけ、モーセに「わたしはある、わたしはあるという者だ」とご自分の名前を告げた神です。ですからこの箴言は三位一体の神を表しています。旧約聖書の中にも神は三位一体であることが示されています。
知恵と英知は主と共にあり、三者は無償の愛の交わりによってひとつです。31節にあるように父と子と聖霊は私たちを無償の愛の交わりの中においてくださるのです。
新約聖書のイエス様の言葉にも三位一体の神が示されています。先ほど読まれたヨハネによる福音書16章12節から15節はイエス様が十字架にお架かりになる前に弟子たちに語った説教です。ここでイエス様は弟子たちに真理の霊を示しました。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(13節)
ルターはこのみ言葉について「聖霊はみ言葉によって、み言葉と共に存在していて、み言葉を通して、私たちをあらゆる真理へ導こうとしておられます」と述べています。このルターの言葉によって、聖霊が真理の霊であるということの意味が分かるように思います。聖霊は子なるイエス様と父なる神とひとつであり、私たちを真理に導いてくださいます。
真理とは絶対とか相対的という尺度では測れないもの、それは「あなた」と「わたし」という関係性の中にあるものではないかと思います。私たちが神に「おとうさん」と呼びかけるのもこの関係性に基づいています。このことはイエス様の言葉を理解する上で私たちに聖霊の働きが重要であることを示しています。たとえばイエス様は「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」(マルコ13:10)と語られました。このことについて聖霊は私たちにどのような真理を伝えているでしょうか。考えてみたいと思います。
私たち人間はすべての人が裁きの座につかなければならなくて、ひとりではその裁きに耐えられません。その裁きの座に聖霊を通してキリストがいてくださって執り成してくださるから耐えられます。人はこのことを裁きの座につく前に知り、キリストに守っていただけるよう願わなければなりません。福音の言葉は礼拝において語られます。礼拝に参加するよう誘うことは、一人ひとりが語ることと同じく福音を伝えることです。しかし教会に誘っても無駄だと思い、その人との関係が悪くなることを心配して誘うことをためらいがちになることがあります。
イエス様はルカによる福音書14章16節から24節の「大宴会のたとえ」を語りました。大宴会の用意が整ったので召使いたちが呼びに行くと、招待された客は都合が悪いと言って誰も来ませんでした。主人は怒って弱い人たちを招いて宴席を一杯にするように召使いたちに命じました。宴会は礼拝や教会のイベントを表しています。招待された客は福音の必要性を感じていない人たちを表しています。それに対して弱い人たちは福音を必要としている人たちです。招待する側は誰が宴会(礼拝)を必要としているかを知りませんでしたが、宴会を必要としている人たちはいて主人である神はその人たちを招こうとして召使いたちを町に送り出したのです。
このたとえが示しているのはこういうことです。弟子たちは福音を必要としている人を知りません。彼らが知っている人たちを招待しても誰も来ないからといって諦めないで、福音を必要としている人たちに出会うまで町に出かけなさいということです。イエス様は福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられ模範を示されました(ルカ8:1)。「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」(マルコ13:10)というイエス様の言葉と「大宴会のたとえ」はこのようにつながっています。真理の霊である聖霊はこのようなことを私たちに悟らせてくださいます。
もう一つ、祈りについて考えてみたいと思うのですが。私たちは日常生活の中で祈ることを大切にしています。私たちは朝起きた時に目覚めることの不思議さと喜びを覚えて感謝の祈りを捧げます。困難なことにぶつかれば自分の努力や力で解決しようとする前に神の助けを祈ります。
聖霊が私たちを助け、イエス様が祈りを執り成してくださっているのですから、祈りさえも私たち人間だけの行為ではありません。そのことが分かれば「完全な祈りをささげなければ」といった呪縛から私たちは解き放たれて、大胆に自由に祈ることができるようになります。
私たちはまた、他者のために祈ります。それは他者との関係性に裏打ちされての祈りであり、イエス様が教えてくださった“隣人を見返りなしに愛する行い”です。イエス様は敵をも愛しなさい(マタイ5:44)と言われました。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることは人間に出来ることではないと思います。憎い相手を赦しその相手のために祈るよりも、神さまに罰を与えてくださいと祈りたくなるのが人情です。
しかし真理の霊である聖霊は、私たちの心の葛藤をご存知の上で、私たちにイエス様の十字架の死を思い起こさせてくださいます。イエス様は誰のために死なれたかといえば、私たち一人ひとりのためでした。私たち自身が裁きの座にいるにもかかわらず、そのことを忘れて人を裁こうとしていることに気づかせてくださいます。人を裁くということにおいて過ちを犯していることに気づかせてくださいます。イエス様が十字架上で言われた言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)は私たちの心を突き刺します。
聖霊はこのようにして私たちが無償の愛で人を愛することができるようにしてくださいます。愛するという行いは、好き嫌いといった感情を越えています。「愛する」とは行動であり、行為であり、動作なのです。相手を赦すという行為は愛する行為です。赦すことのできない相手を赦すことができるようになるのはイエス様の十字架の死による贖い以外にはありません。
教会は今この時にも苦しんでいる人たちや悩んでいる人たちのために「どうかその人たちの魂に安らぎを与えてください」と祈ります。これは口先だけの祈りではありません。自分は大丈夫と感じて他者のために祈ってあげるような祈りでもありません。自分自身に祈りの課題があることを認めつつ、他者の魂に平安が与えられるように祈るのです。
他にも聖書にはたくさんのイエス様の言葉、すなわち神の言葉が記されています。真理の霊である聖霊はこれらの言葉が真実であることを私たちに明らかにして下さり、私たちを励まし、勇気づけてくださいます。私たちは礼拝において、祈りにおいて、無償の愛で愛することにおいて、私たちだけがおこなうのではなく、父・子・聖霊が私たちと共にいてくださることを覚えることができます。これからも神の家族として一緒に喜びにあふれて神の国への旅路を歩いていきたいと願います。