聖書 イザヤ書65章1~5節、ルカによる福音書8章26~39節
(悪霊は)イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」(ルカ8:28)
わたしに尋ねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり、
わたしを求めようとしない者にも、見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った。(イザヤ65:1)
「いと高き神の子イエス」
私は40歳になった頃、「不惑」という言葉を思い、惑うことなく生きなければと考えたことを思い出します。この言葉は論語に書かれている「四十にして惑わず」という孔子の言葉から来ています。そして60歳は耳順(じじゅん)だそうです。これは人の言葉を素直に聞き入れることができることだそうです。私は70歳を越えましたが、いまだに惑い、人の言葉を素直に聞けません。きっと許されて長く生きたとしても不惑や耳順にはなれないだろうと思います。
しかし私は悲観してはいません。なぜなら私はイエス様を知っているからです。不完全な、おっちょこちょいの私でも、神は私を祝福して、神の国へと導いてくださることをイエス様がご自分の命を懸けて伝えてくださいました。私だけではありません。イエス様を知るすべての人がそうなのであって、きっと言葉は違っても私と同様にこのことを告白されるだろうと思います。
先ほど私たちが耳にしたルカによる福音書8章26節から39節には悪霊を追い出してもらった人が登場します。私はこの人と同類ではないかと思います。彼は決して完全な人間になったわけではないでしょうが、イエス様の言葉による悪霊追放の奇跡によって正気を取り戻しました。そして人々に自分が体験した奇跡を39節に書かれているように「ことごとく町中に言い広めました」(ルカ8:39)。「言い広めた」という言葉は原典では「宣教した」という言葉です。彼は伝道者になったのです。弟子たちがイエス様を宣べ伝えるようになる前に、このような伝道者が現れたというのは不思議なことであり興味深いことです。彼が伝えたのは「いと高き神の子イエス」ということでした。弟子たちは使徒言行録に記されているように「イエス様の復活」(使徒4:33)を証ししました。宣教の言葉は違いますが、「いと高き神」は全能のお方であるということからすれば、伝えている事柄の本質は同じです。
この人が行動を起こしたのはイエス様がこの人に「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」(39節)と言われたからでした。癒していただいたことの感謝だけではなかったでしょう。彼は悪霊に憑りつかれていたとはいえイエス様に「いと高き神の子イエス」(28節)と呼びかけていました。彼に起きた悪霊退散の奇跡は偶然でも魔術が使われたのでもなく、「いと高き神」の御子であるイエス様が起こされたものであることを理解したからでした。「いと高き神」という称号は旧約聖書に記されています。たとえば創世記14章でアブラハムはこの称号で神を讃えました。詩編57編や78編にもこの称号を使って神を讃えています。さらに言えば、「いと高きお方」という称号は旧約聖書の中に50カ所以上使われています。
26節に「ゲラサ人の地方」と書かれています。ここはユダヤの一地方でしたがローマ帝国の文化的影響を強く受けてユダヤの教えから離れてしまっていたので、「いと高き神」という称号は忘れられていました。しかし悪霊がイエス様の本質を示す称号をこの人に語らせたことで、この人は癒されて正気に戻った後にイエス様が「いと高き神」の御子であることを確信したのです。
キリスト者はすでに聖書を通してイエス様は神の子だということを知っていますが、当時、人としてユダヤの地を歩かれたイエス様が神の御子であるということを知っている人はほんのわずかしかいなかったのですから、彼の喜びが如何に大きく、その結果、そのことを伝えずにはおられなかったのだということが伝わってきます。
イエス様が行った癒しはどのようなものだったか確認したいと思います。悪霊はイエス様の本質が「いと高き神の子」であることを知っていました。そしてイエス様と闘おうとはしませんでした。イエス様は悪霊に男から出るように命じられました。すると悪霊はイエス様に「かまわないでくれ」とイエス様が自分と関係しないように抵抗しました。イエス様は悪霊に名前を訊ね、悪霊は「レギオン」と答えました。次いで悪霊は「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエス様に願いました」(31節)。すでに勝負はついていて悪霊は負けていますが命乞いをしたのです。底なしの淵とは奈落の底であり、そこは刑罰を受けるべき悪霊たちの牢獄とされているところです。イエス様は悪霊の願いを聞き入れて近くにいた豚の群れに入ることをお許しになりました(32節)。それで悪霊たちは豚の中に入り、豚の群れは崖を下って湖になだれ込んで死んでしまいました(33節)。
悪霊が「底なしの淵」に行かなかったことは不可解です。もしこの悪霊がいなくなっていればこの世のあらゆる悪はなくなっていたのではないかと思えるからです。しかし悪霊に対する審きの時はいまだ来ていないとしても、少なくとも悪霊が人間に危害を加え続けることをイエス様は放置されなかったということは分かります。このことから、私たちはイエス様が再び来られる時まで、悪霊が誘惑しても惑わされないように、福音に堅く立ち続けることが求められていることが分かります。
神は私たちを試練によって鍛えていることを覚えていれば決して悲観的になることはありません。詩編23編は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」という言葉から始まる有名な詩ですが、その4節にこんな言葉が書かれています。
「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」(詩編23:4)
後半に「あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」という言葉があります。いにしえの詩人は、神は人間を見離して好きにさせて、目に余ったら滅ぼすというような放任主義で無慈悲なお方ではなく、人間と共に歴史を作り、それぞれの人が満ち足りた人生を送るように試練を与え、また癒されるお方であることを知っていました。
私たちは悪霊に誘惑されたり束縛されたくはありませんが、そのような試練の時に私たちが弱ってしまって抵抗できなくなっていても、神は聖霊を通してイエス様の言葉を私たちに贈り、その言葉が現実となって私たちは試練に耐えることができ、いつの日にか試練は去っていきます。
先ほど読まれた旧約聖書のイザヤ書65章には人間がどれほど神に逆らうかということが預言者イザヤによって語られています。2節から次のように言われたことが記されています。
「(私は)反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきたが、この民は常に私を怒らせ、私に逆らう。私に怒りの煙を吐かせ絶えることなく火を燃え上がらせる。」と審きの言葉を発します。しかし、不思議なことに1節にあるように主は「わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。」
神はどれだけ怒りの火を燃え上がらせようともご自分を私たちにお示しになられます。
私は説教の冒頭で、私が幾つになっても不惑や耳順になれないと言いましたが、これは悪霊が私を束縛していると見ることができます。自分の意志とは違うことが起きるのです。しかし主はそのような私を悪霊から解放してくださいます。それは私が完全な人間になるということではなくて、悪霊の力が私を生きられない状態や死へと追いやることがなくなるということです。どのように悪霊が私に力を及ぼそうとしても、私が主からいただいた希望を消し去ることはできません。
神の言葉は出来事になります。イエス様が悪霊に出ていくように命じれば、悪霊が出ていくという出来事が起きました。それは遠い過去のことではなく今日にも起きます。これは私だけがそうだというのではなく、イエス様を「いと高き神の子」と信じる人には神の言葉が出来事になります。「いと高き神の子」であるイエス様は真実なお方です。この地上から天に上げられましたが、私たちに聖霊を遣わして守っていてくださいます。