聖書 列王記下2章6~14節、ルカによる福音書9章57~62節
ルカ9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
講壇交換礼拝説教「弟子の覚悟と喜び」(千葉本町教会)
本日は千葉本町教会で皆さまと共に礼拝できますことを主に感謝いたします。6月最終日曜日は千葉支区の日で、千葉内房分区では3年前からこの日に講壇交換をする活動をおこなっています。今年は6教会が参加して互いに交わりを深めています。
ところで連続テレビ小説『あんぱん』という番組の中で、太平洋戦争が敗戦によって終わったあとに小学校(国民学校)の先生だった主人公の若松のぶと柳瀬嵩(やなせたかし)との会話が記憶に残っています。若松のぶはこう言いました。「わたし、教師やめたわ。あの子らの自由を塗りつぶして、あの子らの大切な家族を失わせて。私は生きてていいだろうか」と。それに対して柳瀬は「死んでいい命なんて一つもない。」と言った後に、「正しい戦争なんかあるわけがないんだ。そんなのまやかしだよ。そのまやかしが正義で、敵も味方も仲間も大勢死んだ。だから正義なんか信じちゃいけないんだ。そんなもの簡単にひっくり返るんだから。もし逆転しない正義があるとしたら僕はそれを見つけたい。」
こんな会話です。私は「逆転しない正義」という言葉が印象に残りました。そして聖書に記されているイエス様の言葉を思い出しました。それはと『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。』(ルカ10:27)という最も重要な戒めです。これはマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に書かれている最も重要な戒めです。さらにパウロは『律法全体が、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句において全うされている』(ガラテヤ5:14)と語っています。私たちはこの「隣人」とは敵味方の区別なくすべての人であることを教えられて知っています。これはルカによる福音書10章に記されている「善いサマリア人」のたとえに書かれていることです。私はこの「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めこそ「決して逆転しない正義」、すなわち「神の義」だと思うのです。隣人を愛し、互いに愛し合うならばそこには喜びがあります。この愛は見返りを求めない無償の愛です。自分のしたいことよりも隣人の求めていることを行うには犠牲が必要です。犠牲は我慢とは違い、自らそのことを引き受けることです。このような交わりが隣人を生かすだけでなく、自分をも生かすことをイエス様は教えてくださいました。
イエス様は「神の国は近づいた」と宣べ伝え、このことを言葉とおこないによって示し続けました。イエス様はこの福音を宣べ伝えるために家を離れ、家族と別れて、旅を続けられました。このことが今日のルカによる福音書9章27節以下の出来事の背景にあります。
イエス様一行が道を進んでいきますと弟子志願者が現れました。「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従ってまいります。」とその人は言いました。するとイエス様は弟子とするかどうかを答えるのではなく、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と言われました。この言葉は弟子となるための覚悟を伝えたものです。57節の最初に「彼らが」とありますから、弟子たちはイエス様に従って、その日の寝る場所もないような生活をしていたことが分かります。どんなにか不自由な生活をしていたことかと思います。しかし弟子たちにはイエス様と共に神の国を宣べ伝えるという喜びがありました。
二人目の人にはイエス様の方から「私に従いなさい」と声をかけました。この人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。これは必要なことだと思われます。この人は父親が死んで葬儀に行かなければならないのです。会社ではどんなに忙しくしていても、日限の迫った仕事があったとしても、どんなに重要な会議が予定されていても、親が死んだときは仕事を放って親元に帰ることが許されます。これが世間の常識でしょう。しかしイエス様はここで弟子にしようとした人が父親を葬りに行くことを許さないのです。しかもそこで言われたのは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」という言葉でした。冷酷であり薄情なように思えます。このイエス様の言葉は私たちを震え上がらせる冷酷な言葉なのでしょうか。厳しい言葉ですが冷酷な言葉ではないと私は思います。なぜならば続く言葉に鍵があるからです。イエス様は言われました。「しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」と。神の国を告げ知らせることを第一にしなさいと言うのです。
私は母が危篤になったと弟や妹から電話があった時に、その日が金曜日だったので一瞬は迷いましたが、「今は行けない。日曜日に帰る。」と伝えました。しかし母は日曜日を待たずに逝ってしまいました。電話を受けたとき、私は母のもとに着くまで生きていて欲しいと願いましたが、それは叶いませんでした。私はある牧師に「伝道者としての厳しさを、そして覚悟を味わっています。悲しみの中に浸ることはできません。そんな心境です。」と伝えたところ、その人から「その覚悟やお気持ちが現実的に着地するのには時間が必要です。」と返事がありました。その後のやり取りです。
私 「伝道者であっても悲しみに身を浸していいんだということですね。」
牧師 「関先生は伝道者としての立ち方を引き受けようとしておられる。そこに敬意を覚えます。」
(数日後)
私 「母のことを思い出すと涙が流れてきます。きっとこの涙は癒しの涙なんでしょう。お祈り、励まし、もろもろに感謝です。」
牧師 「たくさん泣いてください。伝道者なら、神様がその涙の意味を教えて下さいます。お体と心が聖霊によって守られますように。」
このようなやりとりによって私は癒されました。このことから分かったのは、イエス様が言われるのは、私たちが肉親の情を断ち切って悲しみといった情を捨てて神の国を告げ知らせよと言っているのではないということです。イエス様はこの人の、また私の悲しみを知っていてくださいます。そしてその悲しみに寄り添ってくださいます。
3番目の人もイエス様に招かれて、「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください。」と答えました。先ほどの旧約聖書朗読ではエリヤからエリシャに預言者のバトンが渡された出来事が読まれました。預言者は神から召命を受けた者です。そしてエリシャが召命を受けた時の出来事は列王記上19章19節から21節に記されています。エリヤがエリシャに自分の外套を投げかけると、エリシャは「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います。」(王上19:20)と言い、エリヤはそれを許しました。
イエス様はこのことを良く知っておられたでしょう。そうでありながら、今はエリヤの時代よりも、もっと緊急であると言われているのです。決して家族のきずなを否定しているのではなく、それよりも重大な職務に付くことをこの人に告げています。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者」と書かれていますが、原典には「鋤に手を置いて後ろを見続ける者」というニュアンスがありますから、イエス様は決断したのならすぐに福音を宣べ伝える働きをするようにと告げているのです。
イエス様は旅の途中でした。思い起こせば、イエス様が人として誕生してから十字架で死なれ、復活して、父のもとに帰られる歩みはすべてが旅でした。イエス様は歩みぬかれました。そしてイエス様は教会に十字架と復活との喜びの知らせを持って歩みを続けることを求めておられます。私たちにはイエス様の行く先がどこであるかを知らされました。そして、イエス様はそこに私たちをひとりも残すことなく招いてくださるのです。
救いは、イエス様の宣教における個々の救いの出来事、つまり癒し、悪魔祓い、蘇生、あるいは十字架上での苦しみや死といった、別々の孤立した形で理解される出来事の中に現れるのではありません。これらの出来事はすべて、イエス様が父のもとへと向かう道の中に現れる出来事です。私たちはイエス様の歩みに現れる神の恵み、無償の愛をいただきながら、イエス様の御後に従います。そこにのみ、私たちの生きる道があり、幸いがあります。神の国はすでに到来しました。それはここにある、あそこにあるというものではありません。しかし確実に存在しています。私たちが無償の愛の交わりの中にいる時、私たちは神の国にいるのです。神を信じて心が満たされているときその人は神の国にいます。神の国はまだこの世界を覆い尽くしてはいませんが、すでに到来しています。キリストの弟子はその神の国の交わりに生かされつつ、神の国を宣べ伝える働きへと押し出されています。