7月6日礼拝説教「天に記される名」

聖書 ルカによる福音書10章1~9節、16~20節

「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)

「天に記される名」

本日与えられたルカによる福音書10章1節から20節にはイエス様が72人の弟子を二人づつにして、イエス様が宣教される予定の町や村に先に行かせて福音を宣べ伝えさせた出来事が書かれています。イエス様はその弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(2節)と言われました。イエス様はすべての人々が福音を必要としていることをご存知で、神の目から見ればすでに収穫の時が来ていることを知っておられます。私たちはこのことが現在起きていることだというふうに考えるのですけれども、イエス様はこの世の時間で言うところの将来を見越して収穫物を早く取り入れるようにと言われています。これは福音を告げることが緊急を要することであるということと、福音を告げ知らせる者が少ないということを表わしています。私たちの目に映る世の中の状況は福音を知らなくても生きていくことができる人々が非常に多いという状況ですが、イエス様の目にはすでに福音を求めている人々の姿が見えているのです。

派遣されて出かける前には弟子たちは祈り願わなければなりません。その願いとは福音が告げ知らされるようにというだけでなく、多くの働き手が起こされるようにというものです。父なる神は働き手を探しておられ、イエス様はその神のご意思に従っておられます。イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、弟子たちに大きな責任を負わせられましたが、弟子たちがが祈り願うことによって父がその重荷を担ってくださり、弟子たちを重荷から解放してくださいます。何よりも先頭に立つのは父なる神ご自身であり聖霊なのです。

イエス様は弟子たち72人を宣教に遣わしました。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」(3節)という言葉です。弟子たちは小羊のように弱い存在であり、派遣されるということは狼の群れに飛び込むようなものだというイエス様の譬えは弟子たちの宣教が困難なものであることを示しています。弟子たちはこれからのイエス様の歩みと同様の生き方をするようになるのですが、すべての人々が救いに導かれることによって報われるのです。彼らは「天に富を積む」(マタイ6:20、マルコ10:21、ルカ12:33、18:22)ことを知っていたことでしょう。

4節の「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。」と、弟子たちが福音を宣べ伝えるのに何も持って行かずに他者を頼るように指示された理由は、キリストの福音は富を与えるためのものではないことを人々が知り、富よりももっと素晴らしい宝に目を留めるようになるためです。使徒言行録3章6節でペトロが神殿の門のそばに居た足の不自由な人に言った「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」という言葉を思い起こさせます。もう一つの理由は、弟子たちが自分の力ではなく神の力により頼むようになるためであり弟子たちに協力した人々が深く福音を知るようになるためでした。途中で誰にも挨拶するなという指示は当時は挨拶に多くの作法があって非常に時間がかかることが背景にありました。そのような儀礼的なものに時間を使うよりも一歩でも先に行って福音を宣べ伝えなさいということでした。

また、当時のユダヤの慣習では旅人をもてなすことは常識でしたので、イエス様の指示は無理難題と言うものではありませんでした。弟子たちはどこかの家に入ったら平和の挨拶をするよう指示を受けました。5節の『この家に平和があるように』は挨拶の言葉ですが、それ以上にこれを受けた人が御心に適う人々かそうではないかの判断をするために役に立ちました。相手が挨拶を返す、というのは弟子たちを受け入れるということであり、それはすなわち福音がその家に受け入れられる素地があるということです。「平和の子」とは御心にかなう人のことですから、その家に平和の子がいれば弟子はその家を働きのための拠点とし、その家で生活を送ることができます。一つの家にとどまるようにというイエス様の指示は、弟子たちを泊めた家族に不快感を与えないためです。その地に留まっておきながら家を転々とするのは不満がある証拠と受け取られてしまいます。ですから家人が嫌でなければ一つの家に留まることは弟子たちがもてなしを感謝しているしるしとなりました。また弟子たちにとっても宿泊場所を心配する必要がなくなります。一つの町での滞在日数はそれほど長くはありませんでした。明治期に日本で伝道をおこなった人々はある町で伝道集会をおこなうと次の町へ出かけて行って広範囲に伝道をしましたが、それと同様のことがおこなわれたと思われます。

8節と9節に「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」とイエス様が言われたことが記されています。イエス様は弟子たちに旅をする時に従うべき2つの事柄を示されました。弟子たちは食べ物についてえり好みをせずに出されたものを食べること、そして病人をいやすことです。人々は癒しを受けることによって喜んで福音に耳を傾けるようになります。癒しは「平和の子」つまり御心に適う人々に対しておこなわれます。その人々は癒しを見て宣教の言葉を受け入れ、神を賛美するようになるでしょう。宣教の言葉とは『神の国はあなたがたに近づいた』という福音でした。この時はイエス様がまだ十字架にお架かりになる前ですので復活も示されてはいませんから、イエス様の宣教の言葉である『神の国はあなたがたに近づいた』という言葉を宣べ伝えたのです。

イエス様が復活した後に弟子たちが宣教したのは「イエス様は復活されました」という言葉でした。そして今日の教会はこの2つを宣べ伝えています。その根本にあるのは「神は愛です」(Ⅰヨハ4:8;16)という言葉です。神は私たちを愛してイエス様を遣わして下さり、イエス様に私たちの罪を負わせ十字架におつけになりましたが復活されました。

ペトロは聖霊降臨の出来事の後に、神殿の門のそばにいた足の不自由な男を癒したことを咎められ「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(使徒4:7)と尋問されたとき、次のように答えて福音を宣べ伝えました。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」(使徒4:10)。福音の言葉は人を自由にします。足が不自由な人は足が自由になっただけではなく、心も自由になりました。このことを今日の教会も宣べ伝えています。

 

イエス様は16節で、弟子たちの言葉に耳を傾ける者と拒む者とはどういう者かを明らかにされました。弟子たちの働きはイエス様の働きに結び付けられています。弟子たちの言葉に耳を傾けることはイエス様の言葉に耳を傾けることであり、弟子たちを拒むことはイエス様を拒み、さらにはイエス様を遣わされた父をも拒むことなのです。

さて、弟子たちは宣教の旅から帰ってくると「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と報告しました。きっと弟子たちは誇らしかったと思います。イエス様のお名前によって祈ると悪霊は屈服します。不安や不信感が消え去り、喜びが湧いてきます。イエス様は悪霊のかしらであるサタンが天から落ちるのを見ました。弟子たちに敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。弟子たちの喜びは頂点に達したことでしょう。

しかしイエス様はここで弟子たちをたしなめました。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(20節)という言葉です。私たちの内に働かれる神の不思議な業、また私たちを通して働かれる神の不思議な業を見る時にも、私たちは私たちの国籍が天にあるという最も大いなる不思議な事柄を見失わないようにしなければなりません。「あなたがたの名が天に書き記されている」というのは、どんなに大きなわざをしようが、どんな小さな業に終わろうが、ひとしくあなた方の名は天に記される、ということ。これがイエス様の約束です。大切なのは、イエス様の業のために、私たちが召されているということです。私たちの人生の業はその痕跡が消えてなくなることがほとんどです。しかし、天に名が記されている私たちがする業はイエス様の約束の中でいつまでも残ります。