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聖書 申命記30章9~14節 ルカによる福音書10章25~37節
その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。(申命記30:14)
『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』(ルカ10:27)
「御言葉はあなたのすぐ近くに」
本日は西千葉教会の礼拝に参加して、皆さまと礼拝できますことを主なる神に感謝いたします。
昨年は西千葉教会創立120周年、土気あすみが丘教会創立40周年の記念の年で、それぞれの教会で感謝の記念行事が行われました。土気あすみが丘教会では、記念誌の発行、聴覚設備と礼拝用ディスプレイの設置、記念コンサートなどの行事を行いました。そして宣教40年教会ビジョンを制定しました。3つのビジョンを掲げています。1つ目は「互いに愛し合う教会」、2つ目は「伝道する教会」、3つ目は「開かれた教会」です。最初に「互いに愛し合う教会」を掲げたのは、私たちが一番大切にしなければならないものは無償の愛による相互の交わりであることを確認したからです。礼拝や信徒の交わりにおいて互いに愛し合うならば、新しく教会に来た人たちは、「ここにまことの神がおられる」ということを感じることができるでしょう。この世の中で競争に疲れ、自分の存在が希薄となっている人たちが無償の愛の交わりを感じて心の安らぎを得られるような教会になりたいと思います。2つ目の「伝道する教会」は福音を多くの人々に届けたいという願いです。洗礼者が起こされることは福音を伝えることの実りとしてありますから、いろいろな機会にいろいろな方法で教会の外に福音を伝えていく教会になりたいと思います。3つ目の「開かれた教会」はどのような人も礼拝に参加し、交わりに加わることができるような教会の幻です。土気あすみが丘教会は高齢者が多いのですが、いろいろな年代の人が礼拝に参加するような教会の幻を見ています。また土気駅周辺にも日本で働いている外国人がいます。日本語があまり上手ではない人たちも参加して共に主を賛美できるような礼拝の幻も与えられています。これらを具体化させることは簡単ではありません。皆で幻を実現させてくださいと祈りながら、いろいろと試しては変えていくということを続けていくなかで具体的な形が見えてくるのではないかと思います。
本日与えられましたルカによる福音書10章25節から37節は無償の愛の譬えと捉えることができるのではないかと思います。イエス様はエルサレムへの旅の途中で律法の専門家から質問を投げかけられました。25節に「すると」と書かれています。これは72人の弟子たちが帰って来てイエス様に宣教の結果を報告し、イエス様が喜びにあふれて21節から24節の言葉を語った後のことであることを示しています。特に21節で「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。」と言われたことに関係しています。
律法の専門家はイエス様を試そうとして「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問しましたが、この人は21節の「知恵ある者や賢い者」の代表としてここに現れているのです。彼は律法の専門家として答えを知っていたということが暗示されています。しかし彼の答えは不十分であることが後に知らされるのです。
イエス様は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と逆に彼に質問しました。この質問には、あなたは知っているでしょう、というイエス様の意図が隠されています。彼は申命記6章5節とレビ記19章18節を引用してイエス様の問いに答えました。申命記には「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」と書かれており、レビ記には「復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」と書かれています。イエス様の時代の敬虔なユダヤ人は神と隣人が愛されることにおいて律法が満たされることを知っていました。したがって律法の専門家が「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えたのは自然なことでした。律法の専門家が答えた「愛しなさい」の愛は無償の愛です。日本語では愛という言葉は1つしかありませんが、ギリシア語では4つあって、男女関係の愛、友人との間の友愛、家族愛、そして神の贈り物である無償の愛です。この無償の愛は見返りを求めません。
最初に土気あすみが丘教会のビジョンをお話しましたが、第1の「互いに愛し合う教会」の「愛し合う」は「見返りを求めない無償の愛で愛し合う」という意味です。大それた幻ですが、この幻は神の国の交わりを地上において求めるということです。
さて、イエス様は律法の専門家に「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われました。彼の答えを実行することが永遠の命を受け継ぐことであることをイエス様はお示しになりました。この永遠の命とは死なないことではなく、死を越えて続く命のことです。私たちは命とは心臓が動き脳が活動しているといった生命活動がおこなわれている状態であり、心臓や脳が停止すれば命が終わったと考えるのですが、命は関係性の中にあります。神との無償の愛の関係の中にある、あるいは隣人との無償の愛の関係のなかにあれば死を越えて命が続くのです。神は私たちを愛しておられます。それはイエス様をこの世にお遣わしになって十字架によって私たちを救い出してくださったことにより明らかであり、イエス様が復活されたことによってなおいっそう明らかです。
しかし律法の専門家は自分を正当化しようとして「私の隣人とは誰ですか」とイエス様に言いました。彼はこの質問に対して律法からの答えを持っていました。隣人とはユダヤ人同胞のことでした。しかしイエス様の答えは彼の理解とは違っていました。イエス様はたとえを用いて「隣人」とは誰かを教えました。このたとえは非常に有名であり、子どもの教会でも良くお話されているので、多くの方がご存知のことだろうと思います。
このたとえに登場する人は、追いはぎに襲われて全財産を奪われ死にそうなほどの大怪我をした人、そのそばを通りかかった祭司、レビ人、サマリア人です。最初に祭司が通りかかり、次にレビ人が通りかかりましたが、この二人とも怪我人を見ながら、彼を避けて通り過ぎていきました。サマリア人はユダヤ人と仲が悪かったのですが、このサマリア人は怪我人を見ると気の毒に思い、応急の手当てをして、その人を宿屋に連れて行き介抱しました。そしてこのサマリア人は翌日、デナリオン銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、怪我人を介抱してくれるよう頼みました。これがイエス様が語られた譬えです。
イエス様は譬えを話された後、律法の専門家に「この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と質問しました。彼は「その人に憐れみをかけた人です。」と答えました。するとイエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われました。
今日の私たちがこのたとえを聞くと「人間としてふさわしい行動をしたのは誰か」といった具合に倫理的な観点で祭司、レビ人、サマリア人を見てしまいます。しかしイエス様の質問は当時の祭司やレビ人の職務を知るならば簡単には答えられないものであることがわかります。祭司やレビ人は代々、イスラエルの人々の罪を神に執り成す職務を受け継ぎ、その職務に忠実でした。神は聖なるお方ですから、祭司もレビ人も聖くなければなりませんでした。死人は一番汚れたものと見なされていました。彼らは汚れることを恐れていたという事情があったのです。祭司やレビ人は現代の倫理的な見方からは想像もつかないような状況に置かれていました。ですから祭司やレビ人の行動は薄情だとか傲慢だということではなく律法に則った行動だったのです。
一方、サマリア人はユダヤ人とは仲が悪くて、互いに交際しない間柄でした。サマリア人にとってもユダヤ人を助けるというのはあり得ないことでした。それではなぜこのサマリア人は怪我人に近づき介抱したのでしょうか。33節に「その人を見て気の毒に思った」と書かれています。彼は人間だからこのようにしなければならないといった倫理観によって怪我人を介抱したのではなく、気の毒に思ったから介抱したのです。この言葉はギリシア語原典ではスプラグクニゾマイという単語が使われています。この言葉は内臓が痛むとかはらわたが千切れるという意味で、福音書では常にイエス様の御心を表すか、神の御心を表す場合にのみ用いられました。人間の心を表わすのに使われたのはこのサマリア人の場合だけです。このサマリア人の心とその行為は驚くべきことです。「だれが怪我人の隣人となったか」。これは怪我人の痛みを自分のこととして受け止め、その人に憐れみをかけた人でした。このサマリア人はデナリオン銀貨2枚を宿屋の主人に渡して旅を続けました。これは2日分の給金に相当するもので、大金というほどのものではありません。そして彼はまた自分の行く先へ進んでいくのです。もちろん用事が済んで帰るときにはその宿屋に立ち寄ることでしょう。しかし全財産を出し、自分の用事をそっちのけにして介抱するということではなく、偶然出会った怪我人に出来ることをしてあげたのです。
さて、イエス様は祭司やレビ人は律法どおりの行動だったことを良しとされているでしょうか。確かに彼らの職務は聖くなければできないことですが、汚れた場合の処置が律法に規定されています。聖さと汚れとは社会生活において絶対の基準ではありません。彼らが心を奪われていたのは職務ですが、他者の痛みに自分も痛むほどの無償の愛を持つならば彼らは怪我人のそばを通り過ぎることは出来なかったはずです。
私たちは律法の専門家がイエス様に答えた『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』という言葉や、善いサマリア人のたとえや、聖書に書かれている神の言葉を知っており、心に留めています。申命記30章9節から14節には、主なる神が私たちに良いものを与えるお方であることが示されています。私たちには神の御言葉が与えられています。「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができるのです」。神が私たちを無償の愛で愛してくださっています。その愛に応えることができるように私たちは造られました。だから御言葉によって心が動かされ、他者の苦しみを放ってはおけなくなります。神は私たちに、み言葉を行うことができる、と約束してくださっています。