7月20日礼拝説教「必要なことはただひとつ」

聖書 コロサイの信徒への手紙1章19~23節、ルカによる福音書10章38~42節

しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。(ルカ10:42 )

揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。(コロ1:23)

「必要なことはただひとつ」

先週はルカによる福音書10章25~37節の「善いサマリア人」の箇所が示されました。本日の礼拝ではこの箇所にすぐ続いて38節から42節の、マルタとマリアの姉妹とイエス様の出来事が示されました。この出来事は私たちに「必要なことはただひとつ」であることを教えています。そのただ一つのこととは何なのか、またイエス様はその必要なものがあれば十分だとお考えなのかについて御言葉に聞いてまいりたいと思います。

 

38節に「一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった」と記されており、イエス様たちは旅の途中であったことがわかります。そしてこの村で旅人としてのもてなしを受けました。当時は旅人をもてなすことが普通に行われていましたから、マルタがイエス様を家に迎え入れることは特別なことではありません。

マルタはイエス様と出会っていたかどうかは分かりませんが、40節に「主よ」と呼びかけた言葉が記されていますから、イエス様が特別な存在であることを知っていたと思われます。イエス様はマルタの招きに応えてマルタの家に入りました。40節に「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と書かれています。旅人をもてなすことに一生懸命な様子が浮かんできます。この「せわしく立ち働いていた」というのは原典では「心が落ち着かないでいた」という意味の言葉です。忙しく働いていて心が落ち着かない状態だったのです。あれこれと一人で食事の準備や部屋の準備、布団などの準備もしていたことでしょう。

彼女にはマリアと言う名の姉妹がいましたが、マリアはまったく手伝おうとしません。39節に「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」と記されています。なぜマリアはイエス様の話に聞き入っていたのでしょうか。話しの内容は書かれていませんが、4章18節のイザヤ書の言葉や6章にある教えや、8章に記されている譬えだったのではないかと考えられます。どの言葉や教えも生き生きとした言葉として聞こえたことでしょう。なぜこう言えるのかと言えば、私たちが聖書を読んだときに感じるものと同じものをマリアが感じたに違いないと思うからです。

マルタはイエス様に「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と願いました。マリアに言葉をかけるのではなくイエス様にお願いしたのは、マルタが何度かマリアに声をかけたけれどもマリアがそれに答えなかったということが考えられます。

イエス様はマリアにマルタを手伝うようにと声をかけるのではなく、マルタに「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と言いました。ここで「思い悩む」とは「重要な事柄が心をとりこにしている」という意味の言葉です。他のことは何も見えない、聞こえない状態になっているのです。「心を乱している」は文字通り多くのことが頭にあって、そのことで心を乱しているという状態を表しています。マルタはこのような状態だったのだと思います。

そしてイエス様は「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われました。もてなしの準備をマルタに任せて、イエス様の話を聞いているマリアは良い方を選んだと言われるのです。

 

ここで私たちはマルタ的な人とマリア的な人という風に類型化して考えがちです。そしてどちらが良いかと考えようとしてしまいます。それはイエス様の「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」の言葉を小さくしてしまうものになるでしょう。

イエス様は「必要なことはただひとつ」と言われましたが、それで十分とは言われていません。つまり「他のいろいろな事をしたとしても、必要なことを忘れないように」、と言われているのです。もっと言うならば「いかに他のことを沢山しようとも、その必要なことをしなければ人生は無意味だ」、そう言っているのです。その必要なものとは「イエス様の言葉」すなわち「神の言葉」です。

コロサイの信徒への手紙1章23節に「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と記されています。ここでは「あなた方が聞いた福音」という表現で「神の言葉」が希望であり、その福音から離れないようにとキリスト者を励ましています。

イエス様はルカのこの箇所ではまだ十字架にお架かりになってはおられませんが、イエス様はご自分の命をお捨てになって人間を罪から救ってくださいました。コロサイの信徒への手紙1章20節に「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と書かれている通りです。

 

私たちの教会の婦人会は「マルタの会」と呼ばれています。この言葉をもって、女性のグループは奉仕をするための会と理解している人はいないと思います。マルタの会はほぼ毎月、例会をしていますが、最初に聖書の学びがあります。「神の言葉」を聞くことから会が始まるというのは、このイエス様が言われている「ただ一つの必要なもの」をきちんと理解しており、それを実践しているということを表しています。マザー・テレサが創設した「神の愛の宣教者会」は世界中で「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的として活動しています。この会の人々は朝7時ごろに出かけて夜まで働いているのですが、朝4時にミサをして神の言葉を聞くことから始めています。私たちの教会のマルタの会も「神の愛の宣教者会」も神の言葉を聞くことなしに奉仕を始めることはないのです。これこそイエス様がマルタに言った言葉の意味です。

イエス様はマリアがそのただひとつの必要なことをしたと言っているのであって、奉仕しなくて良いとは言っていないことに、私たちは注意したいと思います。

なぜイエス様はこのように言われたのか。ひとつはマルタが多くのことに気を取られ心が乱れて、神の言葉を聞くことをしていなかったことをマルタに教えたということです。そしてもうひとつは神の言葉を聞くという神を愛する行為をおこなったならば、喜んで奉仕をしなさいということです。奉仕が義務になり、喜びが湧いてこないならば、きっと神の言葉が心に届いていないという可能性があります。自分だけが忙しくしていて、他の人は働いていないように思えてしまいます。しかし神の言葉を聞くことから始めるならば、私たちは神のために何かをせざるを得なくなります。しなければならない、ではなくて動かざるを得なくなるのです。私たちのために命を差し出されたイエス様のことを思えば、私には何もできないという言い訳ができなくなります。確かに高齢になれば体が動かなくなります。頭の働きも鈍くなります。しかし最後の時まで私たちにはできることが残されていることを知るならば、それをすることは喜びとなるでしょう。

 

イエス様は謂われます。「必要なことはただ一つだけである」。この言葉は私たちを奉仕の義務感から解放して、奉仕の喜びへと変えます。他者が手伝うかどうかはもはや問題ではなくなります。そして喜んで奉仕をしていれば協力してくれる人が集まってくることもあり得ることです。

イエス様が私たちに手本を示してくださいました。イエス様は常に父の御心を尋ねました。私たちを愛してご自分を犠牲としてささげられました。私たち人間にはイエス様のような徹底的な奉仕はできませんけれども、それでもイエス様に倣う者でありたいと思います。