聖書 コロサイの信徒への手紙2章6~10節、ルカによる福音書11章1~13節
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。(コロ2:6)
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(ルカ11:9)
「求めてください」
人はいろいろなものを願います。世の中では、家内安全、無病息災、金運向上、試験合格、心願成就といった具合にいろいろな個人的な、あるいは家庭的な願いが祈られています。また世界平和、環境保護などの公共の願いもあります。神に願うというのは「祈り」です。
先ほど私たちが耳にしたルカによる福音書11章9節の言葉「求めなさい。そうすれば、与えられる。」は良く知られている有名な御言葉です。そして「求める、つまり願えば、その願いは叶う」というふうによく勘違いされる御言葉でもあります。イエス様はこの言葉によって弟子たちに何を教えたのでしょうか。このことを本日の御言葉を通して考えたいと思います。
ルカによる福音書11章の冒頭から読み進めたいと思います。冒頭にはイエス様が弟子たちが「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったことに応えて祈りを教えられたことが記されています。2節から4節は私たちが「主の祈り」として毎回の礼拝の中で祈っています。この短い祈りの言葉の中に私たち人間に必要なものがすべて含まれています。
「父よ」とはイエス様の父である神に呼びかける言葉です。キリスト者は神の養子とさせていただきましたから、キリスト者にとっては自分の父に呼びかける言葉です。
「御名が崇められますように。」は、この世界で人間の権力者や独裁者が崇められるのではなく、ただ父である神が崇められるようにという願いです。
「御国が来ますように。」は、見返り無しの無償の愛に結ばれた神の世界が地上にも来ますようにという願いです。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」は私たちが生きるために必要な食べ物や飲物を、一度にまとめてではなく、毎日与えてくださいという願いです。そして更には、私たちを生かす霊的な力を与えてくださいという願いです。
「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」という願いは父である神のみが私たちの罪を赦してくださる権能を持っておられることを告白しています。私たちは父が私の罪を赦してくださるように願うと共に、私が赦されるのですから私を不当に扱った人を私が赦すことができるようにという願いです。これは私たちが唱えている主の祈りの「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という願いと順序が逆だと思われるかもしれませんが、ギリシア語原典では時間的な順序関係は書かれていませんから、私たちが赦すことと赦されることを同時に願う祈りなのです。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」は人間が誘惑に弱い存在であり、自分の力では誘惑に抵抗できないということを前提としています。これは私たち自身を顧みるならば納得できることだと思います。ですから誘惑から遠ざかる力を与えていただけるように全能の父に願うのです。
イエス様は弟子たちにこの祈りを教えた後で、ひとつのたとえを話されました。ある友が真夜中にパンを借りに来ました。その人は面倒をかけないで、と言ってその願いを聞きませんでした。イエス様はこのたとえの後に「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」と弟子たちに話されました。何度もお願いすることによって願いが叶う、ということを言われています。
そしてイエス様は9節で重要な教えを語られました。それは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」という教えです。父である神は何でも欲しいものを欲しいと思う時に与えるのではありません。父に求め、願うことで私たちにそれが与えられ、探すことで見つけることができたり分かるようになります。門をたたくならば神の国の門であっても開けてもらえるのです。この9節は未来形で書かれていたのに対して、10節の「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」は現在形で語られています。求める者はすでに受けており、探す者はすでに見つけたり分かるようになり、扉をたたく者に扉は開かれています。私たちが願い行動するものはすでに得ているとイエス様は教えてくださっています。それは私たちがしてもらいたいと思うようにではなく、父がその人にとって必要と思われるものを神の時間では既に与えられていると言われているのです。神は未来までも現在の出来事としてお語りになりますから、祈りは聞き届けられて実現するのです。このことを人間の世界の時間で言えば、神は祈りを聞いてその実現を約束されており、時が来ればその約束は必ず実現するということになります。
実現することの確証を与えるためにイエス様は11節から13節の言葉によってそのことを示しておられます。父である神は無償の愛によって私たちを愛して下さり、求める者に聖霊を与えてくださるお方です。他者の権利や信仰を奪うような祈りは決して聞き届けられませんが、個人的な祈りも共同の祈りも時が満ちれば聞き届けてくださいます。
コロサイの信徒への手紙で主はパウロを通して「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」と勧告しています。祈ることを教えられた主は、祈りはすでに聞き届けられて実現することになっているから、祈り続けなさいと諭されました。この主に結ばれて人生を歩むならば、まだ祈りが実現していなくてもキリストに満たされ、願いを諦めることなく祈り続けることができます。祈りつつ満たされて生きることが許されているのです。
今日はこの礼拝の後に教会懇談会が開かれます。懇談会ですからこの会は交わりの場であり互いの交流の場です。日頃は礼拝と奉仕が中心となって、ゆっくりお互いの信仰について語り合うことがありませんから、今日の懇談会ではそれぞれの方がお話しくださってお互いの交流を豊かにしていただければと願っています。
この懇談会のテーマは「伝道について」です。伝道とは「道を伝える」と書くように、イエス様の教え、福音を伝えることです。これも祈りによらなければ出来ることではありません。千葉県や日本全体の伝道に力を注いだ石井錦一牧師は「伝道することの困難さを考えて、何をしても、どのようにしても、だめだという敗北感をもったら伝道は一歩も進みません。」と述べています。
なぜ「道を伝える」のでしょうか。それは、孤独に人との交わりと愛を失った人たちが希望を見出し、自分の存在に自信を持ち、喜びの人生を歩んでもらいたいからです。これは祈りであり願いです。これを求めるならば、父である神は必ず聞き届けてくださいます。私たちはこの40年の間にこの願いが聞き届けられたことを目にして父である神を崇めたではありませんか。伝道の業の実りは少ないと感じる方もおられると思います。しかし私たちが伝道を諦めたら福音はこの地域に広まらなくなります。一人でも御言葉を必要としている人に届くように伝道していかなければならないと思います。この教会が生まれたのも伝道の情熱を持った多くの方々の祈りと奉仕によるものでした。何よりもこの教会の伝統は「まぼろしなき国民はほろび行くように、教会は宣教のまぼろしを抱くことによってのみ、絶えず生かされ、成長し、進展していく。」という宣教師や西千葉教会の松本牧師の祈りにあります。
主は言われます、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と。自分だけとにかく信じていればと、道を伝えることを諦めるのは主の御心をないがしろにしていることを思わなければなりません。決して戦闘モードで声を荒げてキリストの教え、福音を叫ぶのではありません。祈りつつ、主に信頼して、身近なところで道を伝えることを続ける、このことこそが伝道の秘訣です。伝道は自分の信仰を堅くすることにも役立ちます。他者に語るためには何を信じているかを言葉にしなければなりません。そのために道を伝える練習をすることは有効なやり方です。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。」。この言葉が真実であることを知るのは私たちが語る言葉によって、ある人が希望を見出し、自分の存在に自信を持ち、喜びの人生を歩むようになるのを見る時です。そして教会で私たちはその機会に接して、神を賛美してきました。