聖書 イザヤ書57章16~19節、ヨハネによる福音書15章9~14節
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。(イザヤ57:19)
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:12-13)
「まことの平和を求める」
8月は平和を思う月です。日本は80年前の8月に広島と長崎に原爆を受けて多くの人々が亡くなりました。空襲による被害も甚大でした。アジア太平洋戦争で亡くなった人は日本人が約310万人、アジア諸国の人々が約1,870万人もいました。戦争は負けた国だけでなく勝った国にも、被害を受けた国にも不幸をもたらします。長崎では1発の原爆で町が無くなり、そこにいた人々は死んだり大怪我をしてしまいました。広島では約20万人が死に、生き残った人たちも悲惨でした。生き残った人々はその後も後遺症に苦しみ、二世や三世まで不安や苦しみにさいなまれました。東京大空襲の後の町の様子を写した写真には瓦礫の中に焼死体が並べられている様子が写っています。
悲惨さは死者や負傷者の数で量られるものではなく、一人ひとりの人生が奪われたり、狂わされる悲惨さで量られなければならないと思います。幼くして死んだ人の親の悲しみは他者には分からないほど深いでしょう。戦争被害者はその後の人生を負い目を感じて生きて来たようです。6月23日慰霊の日の平和記念公園での追悼式で小学6年生の城間さんが読んだ「平和の詩」には、家族の中で自分だけが助かったけれども「艦砲射撃の食べ残し」とののしられるのを恐れて誰にも言えなかったおばあさんのことが語られました。現在、世界中に推計1万2千発の核兵器があり、これがもし使われたら世界中に大きな影響を与えます。しかし疑心暗鬼は悪魔のように人の心を支配し核兵器を手放そうとしません。
多くの賢人が平和に関する言葉を残しています。まず核保有国が2022年に宣言した「核戦争に勝者はいない」という言葉をご紹介したいと思います。彼らは核兵器を使えば必ず報復を受け国が壊滅的な打撃を受けることを知っています。私たちはこの宣言を核保有国が誠実に守ることに信頼を置きたいと思います。しかし偶発的な出来事によってこの約束が破られる危険性はいつでもあります。言葉による威嚇が現実になる危険性に私たちはさらされています。
インドのマハトマ・ガンジーは「弱い者ほど相手を赦すことができない。赦すということは強さの証だ」と語りました。この言葉には戦争や紛争は弱い者が起こすのだという戒めが示唆されています。
フランスの政治家クレマンソーは「平和を作るより、戦争をする方がずっと易しい」と語りました。この言葉は平和を作ることは大変なことだということを教えています。問題を平和裏に解決する努力をするよりも戦争で解決した方が手っ取り早いと思う誘惑は政治家だけでなく市民の中にもあるのではないでしょうか。戦争に発展する前だけではなく、常日頃から当事国や当事者が会って意見を交わしておくことや民間の人々が行き来している状態を作り、何か問題が発生しても話し合いで解決できるようにしておくことが平和を作ることだというのは傾聴に値します。
「平和はほほえみから始まります」と言うマザー・テレサの言葉は身近な所から平和を作ることができることを表していると思います。問題について話し合いをする前に、笑顔を向けられれば信頼関係ができてお互いに豊かな話し合いをすることができるでしょう。
平和を作ることに関して神は人間にどのようなことを告げているでしょうか。本日与えられた聖書の言葉を通して神の御旨を尋ね求めたいと思います。先ほどは預言者イザヤの言葉と主イエスの言葉が語られ、私たちはその言葉を聞きました。主なる神は預言者イザヤの口を通して「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす。」と言われました。 これはイザヤ書57章19節の言葉です。「唇の実り」とは神がその民を救い、解放して民の嘆きを賛美に変えることを意味しています。主は言葉をもって人を導きます。主は「与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。」と約束されました。この約束は必ず果たされます。この「平和」とは神によって作られる調和としての「平和」です。創世記1章には神が言葉によって世界をお造りになったことが記されています。人間は神は言葉を発することによって現実とすることがおできになります。ここに神の約束を信じ、神に拠り頼む根拠があります。
主イエスの言葉はヨハネによる福音書15章12節と13節に記されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という言葉です。これが平和を実現する戒めです。主イエスの父である神は主イエスを愛し、父も主イエスも私たちを見返りを求めずに愛しておられます。神は無償の愛だからです。愛するが故に人を鍛え、人が道を逸れればどこまでも探して連れ戻そうとされます。その主イエスは私たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言われました。この愛は見返りを求めない愛です。「この愛は愛は忍耐強く、情け深く、ねたみません。この愛は自慢せず、高ぶりません。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱きません。不義を喜ばず、真実を喜びます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えることを可能にします。」(Ⅱコリ13:4~7)。
このような愛によって互いに愛するならば疑心暗鬼の悪魔は私たちに入り込む余地が無くなります。私たちは互いに信頼しあって生きていくことができます。そこに「まことの平和」が実現するのです。
皆さんは見返りを求めない愛で互いに愛し合うことなどできないと思われるかもしれません。あるいは、これは実現しない夢物語だと主イエスの言葉を嘲るかもしれません。もし私たちがこの世界の現実だけを見ていて、人間の努力だけでこれを成し遂げようとするならば、確かに不可能であり、嘲笑したくなる言葉だと思うでしょう。しかし神は実現できないことを約束されることはありません。それは預言者イザヤの言葉を通して主なる神がお語りになった通りですし、聖書にはそのことが記されています。神の言葉は人間のどのような抵抗によっても実現を阻まれることはありません。
私はこのことの確証として2つのことを皆さんにお証ししたいと思います。1つは、神の言葉は生きています。過去の出来事を記しているだけではなく、現在や未来のことも語られています。「互いに愛し合う」ことは神の御旨ですから私たちがそのことを行おうと決心し、祈りつつ行うならば必ず実現します。もう1つは、もし神を信じられず、神の言葉をないがしろにすれば、私たちは生きてはいけないということです。デストピアという言葉が言われるようになりました。これはユートピアとは真逆の暗く悲惨な社会のことです。私たちの行く先がデストピアであるならば、生きる意味は見いだせません。生きる意味が見いだせないとなると、人は「今だけ、金だけ、自分だけ」の刹那的な喜びに生きるようになるでしょう。それは他人の生きる権利を侵(お)かしても自分だけ良ければよいという発想になり、争いや戦争につながります。自分の人生や社会は信じるように実現していくということも真理だと思いますから、私たちが希望を失えば争いの社会が実現してしまう可能性があります。私たちはこの意味でも希望を捨てるわけにはいきません。現実に強大な力が世間を騒がせている間にも、無数の小さな力が世界中で働き弱くされた人々を救っています。その働きは変革の時に、ガンジーやマザー・テレサの働きのように、大きなうねりとなって現れるのです。
神を信じる者はまことの強さを持っています。それは力ではなく忍耐の強さです。自分の力ではなく神の力に頼っているから強さがなくなることがありません。私はマザー・テレサの「平和はほほえみから始まります」という言葉に心を惹かれます。優しい言葉で平和を作ることの本質を言い当てていると私は思います。ほほえみとは互いに愛し合うきっかけです。見返りなしに愛したとしても誤解されることがあるでしょう。心に痛みや傷を負うかもしれません。しかし主なる神はその愛の行為を見ておられます。決して無駄ではありません。まず最初に主イエスが見返りを求めずに私たちを愛して下さり、その命を捧げてくださいました。