聖書 ヘブライ人への手紙11章1~3節、ルカによる福音書12章22~34節
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(ヘブ11:3)
ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。(ルカ12:31)
「神の国を求めなさい」
信仰はある方が良いかもしれないけれども、無くても済んでいると思ったり、何か信仰があると、それと違った信仰を持っている人とうまくいかなくなるので、結局無信仰の方がいいと考える人がいます。しかし信仰がなければ人は生きてはいられません。どんな人でも知らず知らず何らかのものを信じて生きています。たとえば子どもたちを良い人に育てたいと思って努力している母親や父親はその信念によって生きています。良い人に育てたいと思っていてもできるかできないか分からないと思っていたら、どうして本気で子どもを育てられるでしょうか。子どもが良い人になることを信じるからできるのです。お金が一番だと思って暮らしている人はお金を稼ぎ貯めることを第一として生きています。もしお金を貯めたいけれども貯まるか貯まらないか分からないと思っていたらお金を稼ぎ貯めることをしないでしょう。お金は貯まると信じるからそのために努力するのです。
しかしながら努力すれば子どもが良い子になるとは限りませんし、お金が貯まるとも限りません。信じるに足りるものでなければその信仰は土台が不安定です。
ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と書かれています。この「信仰」は聖書に記されている神を信じる信仰です。この神は世の始まる前から世の終わる後まで永遠に存在しておられて、人間やこの世界と関りを持ってくださるお方です。この神は人間との約束を決して破らないお方です。人間は何度も神との約束を破ってきたのですが、この神は約束を破ることはありませんでしたし、これからも約束を破ることはありません。その約束とは神を信じる人々を導くという約束です。
ヘブライ人への手紙11章1節をかみ砕いて言い表わすと「信仰は私たちが求めているものの土台です。私たちが見ることのできない事柄を確かに証ししています。」となります。「私たちが求めているもの」とは結局のところ「自分は何者なのか、なぜ存在しているのか」という根源的な疑問です。存在の根拠を知りたいという願いです。聖書に証されている神は私たちが一番求めているものの土台です。そのお方を信じることで存在の根源を知ることができます。
3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と証しされています。信仰によらなければこの世が神の言葉によって造られたことを知ることはできません。今私たちが見ている世界は、偶然の産物ではありません。もし偶然の産物ならば私たちが生きる意味はありません。「今だけ、金だけ、自分だけ」という自己中心的で刹那的な生き方をするか、絶望して死ぬしかありません。そのような人は生と死のはざまを生きているのです。しかし聖書に証されている神を信じるならば私たちは現実が如何に悲惨であっても、あるいは自分がいかに情けない存在であっても、神に信頼して生きることができます。
ルカによる福音書12章22節、23節でイエス様は「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」と弟子たちに言われました。人間は自分の命がどこから来たのかを知りません。親から生まれたことは聞かされていて知っています。だから神を知らなければ命は自分のものだと信じるでしょう。それが真実のように思えます。だから命を長らえるために食べ物や衣服のことで思い悩みます。しかし命は神から与えられたもの、賜物なのです。私たちは思い悩んでも寿命を延ばすことはできません。最近では健康で長生きするための老年学が進歩して、老化を遅らせるための方法が解明されてきていますが、それでも人は必ず死ぬのです。それが寿命であり、その寿命を延ばすことはできません。
やなせたかしさんが作詞したアンパンマンマーチの歌詞に「何のために生まれ何をして生きるのか」というフレーズがあります。人はこれを追求せずに生きることはできません。死にたくないから長生きしたいというのは生きる目的を見失っていて、生きていても死んでいるのと同じです。高齢になってもアンパンマンのように人を喜ばせることはできます。私事ではありますが、私の母は召される間際まですべての人に「ありがとうございます」と感謝の言葉を語っていました。母は決して他者を喜ばせようと思っていたわけではなく、心からそのように思って感謝の言葉を口にしていたのですが、その言葉を受取った人は喜んでいました。介護をしていた人はこのことを母との良い思い出として私に語ってくださいました。
古代中国の格言に「衣食足りて礼節を知る」というのがあります。この言葉を語った古代中国の宰相である管子(グァンジ)は国を治める者として国民の衣食が足りるように政治をおこなうという意味でこの言葉を語ったそうです。しかしこの言葉は誤解されて、人間は衣食が足りてこそ礼儀をわきまえる、というように理解されてしまったように思います。命が自分のものであればその理解は正しいかもしれません。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むのは当たり前ということになります。しかしイエス様はルカによる福音書12章22節で「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と諭しておられます。これは古今東西すべての人に対しての言葉です。古代中国の格言の解釈とイエス様の言葉とは相反するものです。
このことを考えていて私は森の中で狩猟生活をしている集団を研究した人たちの言葉を思い出しました。すなわち、その集団の人々は衣食が足りてなくても分け合って生きています。何も獲れなかった時に獲物を分けてもらえなければ死ぬからこそ分け合うのです。イエス様が言われた「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」(ルカ12:23)という言葉は、「与え、そして受ける」という本来の人間同士の生き方を表しているように思います。また存在の尊厳ということが根底にあるように感じられます。つまり人は長く生きるために生きているのではなく、神から与えられた命を用いて使命を果たすために生きているということ、また衣服は必要だが体より大切ではないということです。野の花が美しく咲いているのも、カラスが生きているのも、神が養っていてくださるからです。私たちは思い悩んだからといって寿命を延ばすことはできません。人間以外は思い煩うことなく本能のもとに生きているのに、人間は思い煩って生きていることを思うと滑稽に思えてしまいます。
私たちは若くても、また高齢になっても「何のために生まれ、何をして生きるのか」が具体的に何であるかを知ることはできませんが、そのことを求め続けることはできます。聖書に証されている神を信じるならば私たちの存在の土台はしっかりしていることを知ることができます。私たちは生きていて良いのです。何かができるから生きていていいのではなく、生きていること自体に価値がある存在です。
生きていることを感謝することは私たちに与えられた生き方です。それは衣食を求める生き方ではなく、神の国を求める生き方です。イエス様は「ただ、神の国を求めなさい。」(ルカ12:31)と教えてくださいました。生かされていることを喜び、感謝し、神の国を求めつつ日々を送るならば、きっと素晴らしい人生を全うすることができます