8月17日礼拝説教「信仰の道を進もう」

聖書 ヘブライ人への手紙12章1~3節、ルカによる福音書12章35~40節

あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。(ヘブル12:3)

主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。(ルカ12:37)

「信仰の道を進もう」

自分を信じることは当たり前で確実だと思えます。しかし考えてみると心も体も思い通りにならないのが人間です。善いことをしたい、悪いことはしたくないと思っていても、その反対に善いことをせず悪いことをしてしまう自分に嫌気がさすことがあります。そもそも私たちは根本の疑問を持っています。それは、何でこの時代にこの場所にいるのかという存在の疑問です。この疑問が解決しない限り自分が生きていることの土台があやふやです。

キリスト者には確固とした土台があります。ヘブライ人への手紙11章1節にある通り「聖書に証されている神を信じる信仰こそが土台」です。先週、私たちはこの言葉を心に留めました。私たちが存在していることは私たちの内に土台があるのではなく、私たちの外、神に土台があります。私たちが生きていることの存在の土台は神にあるのですから「自分みたいなものが生きていていいのか」といった疑問は霧が晴れるように消え去ります。

今日はヘブライ人への手紙12章1節からの御言葉が与えられました。1節には「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」と書かれています。この「こういうわけで」というのは11章に記されている信仰の先人たちの人生が神に認められていたことを指しています。たとえばモーセは信仰によって主なる神の命令に従い、エジプトのファラオの怒りを恐れず同胞を率いてエジプトを出発しました。他にもアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフといった信仰の先人たちも信仰によって神の言葉に従って使命を成し遂げ、神に認められました。その人々は証人です。

キリスト者はその証人たちに囲まれています。証人たちは私たちの人生における競争、すなわち与えられた使命を果たすことを応援しています。競争と言うと他者と競うことを思いますが、この競争は前を走るイエス様について行く競争です。聖書を通して私たちはそのことを知ることができます。キリスト者はイエス様によって救い出され解放してもらった人々ですから、自分は大したことなどできない、とか、若者なので自信がない、とか高齢で体も頭も弱ってしまった、などの重荷に縛られる必要はありません。その人なりに主の御心をなしていく努力をすることができます。

2節に「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」と示されています。イエス様は神の権能をお捨てになって人となられたうえに、どの人より低くなられました。「耐え忍ぶ」という言葉はギリシア語で「何かのもとに留まる」という意味があります。つまりイエス様は父なる神から与えられた使命を十分に理解しており、その使命の下に留まり続けたのです。私たちが使命を果たすことに気力を失い、疲れ果ててしまわないように、3節には「御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」と励ましの言葉が書かれています。イエス様が私たちのために忍耐して、罪の贖いを成し遂げてくださいました。

イエス様が地上で使命を果たされて天に上られた後、イエス様は天の聖所でまことの大祭司として今も私たちを執り成しておられます。聖霊を私たちに降して下さり、イエス様とのきずなを保つことができるようにしてくださっています。これは御子が今も人間の側にいてくださることを示しています。ルカによる福音書12章35節から40節で、イエス様が天に上られた後にキリスト者がどう生きるかを、イエス様は教えてくださいました。37節に「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」という譬えで私たちがどのように人生を歩んでいけばよいかをお示しになりました。

主人が旅行や仕事で家を留守にしているときに、僕が主人の留守をいいことに目を閉じて日毎の務めを怠っていたならば、帰って来た主人はそれを見つけきつく咎めることでしょう。逆に主人が留守にしていても目を覚まして日毎の務めを忠実に果たしているのを見つけるならばその労をねぎらい、その働きにふさわしいことをするでしょう。

このたとえから、主人がいなくても主人のことを考えて主人の言いつけを守って忠実に働いているというイメージが湧いてきます。この僕(しもべ)は主人を心から愛しています。そして主人は僕たちを愛しています。ヨハネの手紙第一の4章19節「私たちが神を愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」と証しされているとおりです。

イエス様は終わりの日に再びこの世界に来られます。その日は必ず訪れるのですが、人間にはその日がいつであるかは知らされていません。私たちが地上にいる間にイエス様が来られるかどうかは分かりません。それでも私たちが目を覚ましているのは、「神の国が来ますように」と願う私たちの祈りが実現するためです。すでに神の国はイエス様の到来によって地上に現れました。そして私たちがイエス様を信じて神の使命を果たすならば、そこには神の国が現れています。

ところで、もし品行方正に生きることが目を覚まして日毎の務めを果たすことだと思うならば、それは間違った理解です。品行方正は道徳的な観点から見て模範的であり、非難されるような点がない態度を指します。このような態度が結果として現れるのであれば素晴らしいことですが、品行方正を目的にすると人は表面上だけ善人を装う偽善者になっていまいます。そのような生き方は自分を欺く窮屈な人生でしかありません。

「目を覚ましておく」ことに関してガラテヤの信徒への手紙5章には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と証しされています。またエフェソの信徒への手紙6章には「神の武具として真理、正義、平和の福音が示されており、信仰の盾や、救いの兜、神の言葉の剣を取り、根気よく祈り続けなさい」といった勧告が記されています。これらの証しや勧告はイエス様が言われる「目を覚ましていなさい」の具体的な事柄です。

いつも目を覚まして「神と人を愛する」ということはまことの平和を実現するキーワードでもあります。平和は神の国にあふれるものです。海軍史研究家の戸髙一成(とだか かずしげ)さんは平和を実現するにはどうすればよいかという若者の質問に答えて「自分が正しいと思うものを相手のために譲ること」と言いました。この方がキリスト者かどうか私は知らないのですが、まことの平和について考えを深めていけばキリストの言葉に近づいていくのだと思います。この言葉は「見返りを求めずに人を愛する」を具体化したものではないかと私は感じました。

私たちは科学技術を中心とする教育によって答えは1つと思い込んでいます。ところが戸高さんは100人いれば100通りの答えがあるというのです。戸高さんは多摩美術大学で学ばれた方なので、デッサンを例にしてこのことを説明しました。「一つの対象を100人が描けば100通りの絵ができる。もし同じ絵があったら真似したと言われる」というのです。その100通りの絵はどれも答えです。見る角度、描く人の心象などによってそれぞれ違う絵ができあがります。答えはひとつではありません。

自分が正しいと思うものを一度横において相手の意見を聞くことは大切なことであり、それが「見返りを求めずに人を愛する」という具体的な行動ではないかと思います。多様性を認めるということは難しいし、自分の意見と異なる場合には心に痛みや複雑な気持ちを感じますが、それを乗り越えることは忍耐です。また、無理な妥協は続きません。意見の異なる相手に自分の意見を理解してもらう努力もまた忍耐が必要です。すべての人にとって、譲れないところが減っていくならば一致点を見いだしやすくなるでしょう。この努力によってまことの平和や神の国が実現するのです。大変な努力と忍耐が必要です。もし私たちが神を信じることなく、神に願い求めることなく、自分が正しいと思うものを相手のために譲ろうとしようとしても、きっとうまくいきません。人と人だけの関係ではどうしても信頼関係が築けないことがあります。利害調整に猜疑心が入り込むと一致点を見いだすことができなくなり争いへと発展してしまうでしょう。私たちが神を愛し、神は私の願いを聞き届けてくださると信じて祈り求めるならば、神はその祈りを聞き届けてくださいます。

信仰とは聖書に証されている神を信じることです。そしてこの土台は決して揺らぎません。土台がしっかりしていますからいつも目を覚ましていて「自分が正しいと思うものを相手のために譲ること」を実行することができるようになります。そのようにしてまことの平和である神の国が地上に現れます。