8月31日礼拝説教「善い行い」

聖書 ヘブライ人への手紙13章1~5節、ルカによる福音書14章7~14節

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(ヘブ13:5)

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:11)

「善い行い」

先ほど私たちが聞きましたルカによる福音書14章にはファリサイ派の議員がイエス様から、イエス様を罪に問うことができる言葉を引き出そうと食事に招いた時の出来事が記されています。1節に「イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった。」と書かれているのをご覧ください。ファリサイ派とは律法と言う規則を厳格に守る人々のグループです。規則を守ることは社会の秩序を保つために必要なことですが、すべての人が守ることのできる規則でなければならないのに、当時は人間が神さまの戒めを拡大解釈して誰でも守れる律法になっていませんでした。それにもかかわらず、ファリサイ派の人々はそれを守ることができない人々を汚れた者として社会的な制裁を加えていました。それに対してイエス様は経済的理由や身体・精神のしょうがいといった理由のために律法を守ることができない人々と一緒にいて食事も共にしていましたからファリサイ派の人々から攻撃を受けていたのです。

イエス様は招かれた食事の席で11節に書かれているように「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と語りました。この言葉は謙虚な人と傲慢な人を対比させて、謙虚であることを教えているというふうに理解しがちです。辞書によれば、謙虚とは自分の限界を理解し他者の意見や価値を尊重する態度であり、傲慢とは自分の優位性を誇示し他者を見下すような態度のことです。そして謙虚さと傲慢さのバランスを取ることが大切とされています。しかしイエス様の言葉を謙虚と傲慢の対比という風に理解しては教えを正しく受取ることはできません。

11節をなるべく原典どおりに表現すると「だれでも自分を高くする者は神によって低くされ、自分を低くする者は神によって高くされるであろう」となります。つまりこの言葉は人と人との関係を表しているのではなくて神と人との関係を表しているのです。

「自分を高くする者」とは「自分を神よりも上に置こうとする者」です。自分の考えは神の教えよりも正しいと考えますから、自分が常に正しいと思います。こんな人はいないと思うかもしれませんが、ある状況で自分の考えを第一にすることは誰にでも経験があるのではないかと思います。それが高じれば神を侮る考えや行動をするようになってしまいます。そのような者は神が低くされる、すなわちその者は将来必ずおとしめられ、 面目を失わせられると言われます。

一方で「自分を低くする者」とは「神を第一とし神に仕える者」です。聖書には神によって神に祝福される生き方が示されていますから、神を第一とし神に仕えるように生きるにはどうすればよいかと悩む必要はありません。神を第一とし神に仕えようと志して生きる人は高くされる、すなわちその者は将来必ず神が高めてくださり報酬を受けると言われるのです。

イエス様はこのことを7節から10節までの婚宴の席順の譬え12節から14節までの招待者に向けての言葉で戒めをお示しになりました。席順の譬えでは高ぶる者が祝宴の上席に座ると招待者から末席に移るように言われて面目を失わされます。むしろへりくだる者として下座に座っていると招待者はその人をふさわしい席に案内し、その人は高められて面目を施すでしょう。これらは私たちが向かう神の国の交わりを示しています。神の国の食卓では神がそれぞれの人に相応しい場所を提供してくださいます。12節から14節までの招待者に向けての言葉では、招いた者が自分を高めようとお返しをしそうな人を招待することを戒め、むしろお返しができない人を招待することを勧めています。これは神の国の先取りである私たちの交わりが自分を高めるためのものであってはならず、むしろへりくだる者として、お返しを当てにすることなく行動することを教えています。

 

私たちは先ほどヘブライ人への手紙の言葉も聞きました。今日は最後の章である13章1節から7節の言葉を聞きました。ここは先ほどのルカによる福音書の言葉と響き合っています。1節に「兄弟としていつも愛し合いなさい。」と書かれています。ここにはフィラデルフィアという言葉が使われています。この言葉は「兄弟愛」という意味です。意訳すると「あなた方は兄弟愛を保ちなさい」となり、これは教会内における愛の実践を勧めています。

2節には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」と書かれています。旅人は見知らぬ人でもあります。その人をもてなすということは社会においての愛の実践を勧めているといえます。その人は天使であったりイエス様であるかもしれません。昨今では強盗傷害事件が発生していますから、この言葉をどのように実践するかは難しいことのように思えます。しかし実際に悪意を持った人は多くはありません。こちらが善意を持って声をかければ相手の人もそれに応えてくれます。私はそのような経験を何度もしていて、相手の人にかける言葉が大切だと感じています。相手の人に「危害を加える気持ちはありませんよ」ということと「心配です」ということが伝わるように声をかけると、相手から素直な返事が返ってきます。この世の中、悪人が沢山いるように思えても、実際は殆んどの人が普通の人なのです。助けが欲しいと思っていても自己責任という言葉に惑わされて、助けを求めることができなくなっています。その時にやさしい言葉をかけられれば安心するでしょう。

3節では、牢に捕らえられている信仰の友のことが念頭に置かれています。そしてこれは社会にあって底辺に生きている人に対する愛の業を勧めているというふうに読むことができます。イエス様は私たちの苦しみをご自分の体で受け止められました。イエス様の憐れみを知る私たちは想像力を広げて誰であったとしても肉体的・精神的に虐げられ苦しんでいる人を思いやることへと招かれています。

4節、5節は戒めが書かれています。不倫は夫婦関係を崩壊させます。それは良い交わりを破壊する行為です。金銭欲はお金がいくらあっても満足できない思いを抱かせ、損得勘定だけの人生となってしまいます。お金は必要ですが金銭欲は不要です。5節の後半に「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という神の言葉が示されています。これはマタイによる福音書1章23節にあるイエス様の別の呼び名「インマヌエル」です。神が私たちと一緒にいるということを神はイエス様を遣わすことでお示しになりました。

私たちが神の前にへりくだる者であるということは神の国の交わりが与えられるということです。神の国の交わりは皆が同じ食卓につくという譬えに現されています。嫌いな人やウマが合わない人と同じ食卓につくことはできません。だから、互いに知り合い、相手の思いを尊重し、仲直りをしなければなりません。

このことは私たちの努力では実現不可能です。しかしイエス様が神との関係を回復してくださったように、人との関係も回復してくださいます。そのために十字架にお架かりになり、そして今も天で私たちを執り成しておられます(ヘブ7:25)。私たちは共に食卓につくことができますようにと祈ることによって善い行いができるように変えられていきます。

先週、私はユビラーテ奏楽者の会の研修会に参加しました。研修会の最終日には賛美礼拝があり、その中で演奏をおこないます。そのために奏楽者や聖歌隊は演奏される曲について学び、練習を積むのです。最終日の合同練習の最後のあたりで、曲は喜びの音楽なのに私の演奏はそれが表現されていないという指摘を受けてしまいました。ひとつの音楽を造り上げようと40人以上の人が頑張っている中で、そして時間が迫っている中で、皆さんは私の演奏が修正されるまで黙って待っていてくれました。そして指揮者からOKが出たとき、期せずして全員から拍手が起きたのです。私は私のために皆さんの時間を無駄にしたという申し訳ない気持ちでいたのでその拍手の意味が分かりませんでしたが、少なくとも私を受け入れてくださったことを感じました。その後に私は「あの拍手の意味は、全員で音楽を作り上げる時に、一人の人の成長を皆が喜んだということではないだろうか」と思い至りました。そうです。私は皆さんに罵られ疎外されるのではなく、迎えられていたのです。その場には誰一人として高ぶる者はいませんでした。皆が神の前にへりくだる者であり、神への賛美をささげる者として用いられていたのです。そこにいる人々はただ神を賛美する者としてひとつでした。

 

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

この約束は真実です。私たちは神の国に招かれたときにこのことをはっきりと知ることになるのですが、生きている現在も、神を賛美し、互いに愛の行為である善い行いをすることによって神の国(神の支配)を前もって体験することができるのです。神を第一とし、神にへりくだる生き方は善い行い(神に喜ばれる行い)へと私たちを招き、人々をひとつにします。