9月7日敬老感謝礼拝説教「使命を担う」

聖書 フィレモンへの手紙1章17~20節、ルカによる福音書14章25~33節

だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、(あなたの奴隷の)オネシモをわたしと思って迎え入れてください。(フィレ1:17)

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14:27)

「使命を担う」

今日は敬老感謝の礼拝です。教会では高齢者を敬うということよりも、私たち一人ひとりが神様に愛されて今日まで導かれてきたということを感謝する時でありたいと思うのです。そういう意味では年齢に関係なく私たちがこれまで生きてきたことを感謝し、これからの生き方について考える時としたいと思います。

NHK朝ドラの『あんぱん』が人気のようです。私は仕事の合間にパソコンで見ています。この主題歌『賜物』は早口言葉のようで何を歌っているのかよく分からないので、歌詞を調べてみるととても興味深いものでした。最初にこのように歌われます。

    涙に用なんてないっていうのに
    やたらと縁がある人生
    かさばっていく過去と視界ゼロの未来
    狭間で揺られ立ち眩んでいるけど

人生に涙は付き物ですが、若い人の感性では「涙にやたらと縁がある」と表現されています。そして過去は「かさばっていく」と過去の重荷を背負っている様子が表され、未来は「視界ゼロ」という表現で人間には一切見えないことが表現されています。人間は過去と未来の狭間を生きていて、前に進むことができずにめまいがするという意味を歌詞にしています。私はこの歌詞から生きていることの戸惑いを感じます。

次の歌詞は私には驚きです。

    「産まれた意味」書き記された
    手紙を僕ら破いて
    この世界の扉開けてきたんだ
    生まれながらに反逆の旅人

作詞者は人間には「生まれた意味がある」と言います。聖書は神が人間を造ったと記していますから、この作詞者の理解、すなわち自分で生まれてきたという理解とは違いますが、共通点として、一人ひとりの存在は無意味ではないということです。しかし、作詞者はその意味が書き記された手紙を破いてこの世に生まれてきたと語り、人間は「生まれながらに反逆の旅人」と表現します。聖書の言葉に当てはめるならば、人間は生まれながらに罪人というように解釈できるように思います。また「旅人」という表現は聖書が語る「この世の寄留者」ということに通じています。

そして、歌詞は

    人生訓と経験談と占星術または統計学による教則、その他参考文献、
    あふれ返るこの人間社会で、道理も通る隙間もないような日々だが
    今日も超絶G難度人生を生きていこう。いざ。

と続きます。「超絶G難度人生」という言葉に生きることはいかに大変かが現れているように思います。「生まれた意味」が分からない人は現実の不条理の中でめまいがするような状態で前に進むことがとても大変です。この歌が人気なのは共感する人が大勢いるからではないかと思います。

このような現実にあって、イエス様は私たちにどのような生き方をするように言われたでしょうか。本日与えられたルカによる福音書14章25節から33節によって確認したいと思います。25節に「大勢の群衆が一緒について来た」と書かれていますので、これは先週私たちが耳にした箇所に書かれていたファリサイ派の家からイエス様が出たところであることがわかります。

イエス様は群衆に「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(26節)と言われました。これがキリストの弟子、すなわちキリスト者の生き方であるとイエス様は言われるのです。

自分の家族や自分自身さえ憎まなければキリスト者ではないとはどういう意味でしょうか。「憎む」という言葉の反対の意味の言葉は「愛する」です。イエス様はご自分の弟子になろうとするのであれば、自分の家族や自分自身を愛してはいけないと語っています。この愛は利己的な愛です。無償の愛は見返りを求めず与えますが、利己的な愛は自分を可愛がり、いろいろなものを自分のものにしたいと欲します。

つまりイエス様の言葉はモーセの十戒の第4戒である「あなたの父母を敬え」や、一番重要な戒めである「隣人を自分のように(無償で見返りなしに)愛しなさい」と矛盾してはいません。イエス様は弟子たちに対して、弟子でありたいと望むならどんなに辛い犠牲を払ってでもイエス様に従おうという無条件の決断をするように命じておられます。その前提にはすべての人間関係は主にあって意味があるということが暗黙のうちに示されています。

27節の「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」という言葉は弟子たちがイエス様に従うためには万事を断念し、死でさえも受け入れる覚悟が必要であることを示しています。

歴史上、復活のイエス様を宣べ伝えて殉教した人が何人もおり、そのことが歴史書に記されています。たとえば紀元107年ごろ、アンティオキアの司教イグナティオスはローマ帝国によって死刑を宣告されローマまで護送され殉教しました。護送の途上で彼はローマのキリスト者たちが何とかして彼を救い出そうと考えていることを伝え聞きましたが、これは彼の願うことではありませんでした。彼は次のような手紙を書き送りました。

私が苦難を受ける時、私はイエス・キリストにあって解放され、キリストと共に自由な者としてよみがえるでしょう。私は神の穀物であって獣の歯で噛み砕かれることにより、キリストの純粋なパンとして、自分自身を差し出すのです。(『ローマ人へ』1:2~4:3)

イグナティオスがここまで勇敢に死に向かう決意を抱いたのは、このことを通してキリストの証人となるためでした。殉教は誰にでもできるということではありません。神が与えたその使命を受けた人だけです。当時、自分が殉教したいと申し出たキリスト者がむち打ちの刑を受けて放免されたという記事もありますからキリスト者が全員殉教したということではありません。

さて、自分の十字架とは何でありましょうか。それはイエス様やイグナティオスと同じように苦しみを受けて殉教することではありません。自分の十字架とはそれぞれに与えられた使命です。イエス様は神の国を宣教し、人を罪から救い出すという最も重い使命を果たされました。イグナティオスはそのイエス様、復活のキリストを宣べ伝えるという使命を果たしました。

このように「自分の十字架を背負ってイエス様の後について行く者」とは使命のことです。これは『あんぱん』の主題歌の「生まれた意味」と言い換えられると思います。人間は何にも束縛されずに生きることはできません。命は神との関係のうちにあります。この命とは肉体の生死を越えるものであり、聖書では「永遠の命」と表現されています。神との関係があれば私たちは死んでも生きます。イエス様は「私につながっていなさい」(ヨハネ15:4)と言われました。これは肉体が生きているときだけのことではありません、死んでもなおつながっていることによって永遠の命が与えられるのです。

羽仁もと子というキリスト者の女性がいました。この人は100年前の女性の人権が軽視されていた時代に、女性を男性と対等な地位にすることで日本の社会を良くしようと『婦人乃友』(当時は『家庭乃友』)を創刊し、婦人之友社を設立して女性の地位向上に尽力した人です。その読者の会である『友の会』は全国に組織があり、海外にもあり、女性だけで運営されて今日に至っています。ボランティア組織ですがとても良い活動をしています。『友の会』の活動で特筆されることは友の会がおこなう全国家計調査の結果は総務省統計局の家計調査にも用いられるほど信頼されているということです。

創始者である羽仁もと子の著作集に信仰編という本があり、その中に「使命の道」というの文章があります。羽仁もと子は要約すると次のように述べています。

日本国の長所短所を自覚することができる様になったら、長所を感謝して伸ばし、短所はどんなに長い間そうであってもぜひともそれを造り変え鍛え潔めていかなくてはなりません。

羽仁もと子は天下国家に貢献する働きを使命と感じており、それを『婦人之友』を通してまた「友の会」の活動を通して多くの人々に訴えたのです。私たちが考える使命は自分が生きている意味を無意識期のうちに自分の周りだけに限定してしまいがちですけれども、神はこのような大きな使命も個人に与えておられるのです。しかし一方で、この使命を達成するために羽仁もと子がおこなったのは具体的で困難な活動でした。そして次のように語ります。

一人ひとりの使命はどれもそれぞれの人が進む前人未到の険しい道です。そしてその道を照らしているのは、ただ神の光のみです。誰でも厳かな気持ちと敬虔な態度を持って、使命の道を行くときに、そこに本当の自分の姿を見、またその自分を導いてくださる父・子・聖霊の神を思わない人はないはずです。人間が神を思う前に、神は既に私たちを呼んでおられるからです。

自分の十字架である使命を背負いたくないとしり込みするかもしれませんが、実は誰でも重荷を背負っています。そのことを知らなければ人生は苦労の連続だと思ってしまいます。。生きている以上、重荷を背負っていかなければならないのであれば自分の使命を背負っていく方がいいのです。なぜならその十字架の一方は私たちの主イエス様が背負っていてくださるからです。

今日はフィレモンへの手紙も聞きました。フィレモンへの手紙にはフィレモンに奴隷オネシモを奴隷としてではなく、キリストを信じる同信の友としてキリストを宣べ伝える使命を担ってもらいなさいというパウロの勧告が書かれています。

この手紙に示されているのは身分や職業や階層に関係なく、主にあって神の家族としての交わりを大切にし、互いに愛し合いながら、この社会にあって主を宣べ伝えることがキリスト者の使命だということです。これは奴隷制度が公認されていたパウロの時代にあって、画期的な教えでした。オネシモの名前はコロサイの信徒への手紙4章9節に出ていて、主の良き働き人となりました。

身分や職業や階層を越えて対等な交わりを人間関係だけで実現することはできません。私たちの主であるキリストを信じることによって豊かなまことの交わりをすることができます。どの人の使命も等しく重要であり、他者が「あなたの使命は軽い」などと言うことはできません。

イエス様を信じることによって、それぞれの置かれた立場で人のため神のために働くことは使命を果たすこと、そしてイエス様が寄り添っていてくださることを信じれば使命の重荷は軽くなります。前人未到の使命の道を行くわけですけれども、その道はイエス様が共に言ってくださっているのです。イエス様は私たちを罪の束縛から救うという一番重い使命を担われました。イエス様が一番苦しまれました。この思いを持って私たちは使命の道を行くことができます。それは幾つになってもです。「明日、もし神のもとにいかねばならないとしても今日わたしは木を植える。その実りを自分が味わえないけれども、後の人のためにそのことをする。」これが私たちの生き方ではないかと、このことをイエス様は伝えているのではないかと思います。

ルカによる福音書ではイエス様は、計画的にしなさいというようなこととか、持ち物をすべて捨てなさい、ということも言っておられます。持ち物をすべて捨てなさい、すなわち持ち物をすべて与えなさいというのは、自分のものにするなということであって、共有のものにするということです。たとえば自然は共有のものなのに自分のものにしようとします。石油だって、海のものだって人間のものにしてしまおうとする。そして汚してしまう。結果として私たちはその影響を受けているのかもしれません。持ち物を捨てるというのは何もなくなるのではなくて共有のものがあるということです。そこに思い至る時に、私たちは何を大切にしなければいけないかということがはっきり分かります。それも使命の道です。十字架を背負っていく道です。

私たちは歳をとっていくと何もできなくなるのではありません。一つひとつ神にお返ししていくわけですけれども残されているものがある。神は残されたものを用いなさいと言われているのです。自分に残されたもので使命を果たしていく時に私たちの人生は充実しているのであります。年を取ることは悪いことではありません。生きていることは辛いばかりではありません。使命を担うことが私たちを元気にしてくれます。そのような生き方を神さまに召されるまでしていきたいと願います。