「まことの神を見上げて」(2017年7月23日礼拝説教)

エレミヤ書7:Ⅰ~7
使徒言行録19:11~20

 旧約朗読エレミヤ書7章は、ソロモン王の造ったエルサレム神殿に於ける、預言者エレミヤの預言の言葉です。神殿を奉献したソロモン王は、次のように祈りました。列王記上8章27節からお読みします。
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをおおさめすることはできません。わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。」
 神殿とは、そこに神ご自身が住んでおられるところではない。人間の造った神殿など、神の住まいとはなり得ない。ただ、その「名」神の「名」―「名」というのは、その人のすべてを顕すものとして聖書では語られています―すなわち、神の人格、そして権威がとどめられている場所であり、名のとどめられている神殿とそこでささげられる祈りと願いとを顧みてくださいと、ソロモン王は祈っています。
 このソロモン王の祈った、神殿は神の「名をとどめる」ところである、そして「名のとどめられている神殿とそこでささげられる祈りと願いとを顧みてください」という言葉は、今日お読みした使徒言行録19章13節にある「主イエスの名を唱え」る、ということと深く関連しています。使徒言行録の中には、使徒たちが「イエスの名」を用いて、多くの不思議な業を行っていることが随所に出てまいります。神殿は神の名がとどめられている場所で、神の権威がそこにあるのですが、イエスという神の御子の名、そのものにイエス様の権威が置かれており、弟子たちは、イエス様から直接、「イエスの名を用いる」ことを許されています。ヨハネによる福音書16章23~24節をお読みします。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。
 普通、人の名を用いて勝手になにかをするならば、それは良くないことです。人の名を借りて何か不正にものを得るようなことがあれば、それは大きな罪となりましょう。しかし、イエス様は、弟子たちにイエス様の名の権威を用いて、父なる神に願いなさい。そうすれば、与えられると、「イエスの名」を使う特権をお与えになりました。
「イエスの名」には、イエス様の権威があり、イエスの名によって願うことは、イエス様の祈りと同じ権威が与えられるからです。初代の使徒たちは、そのことをよく知っており、「イエスの名」を用いて、権威を以って話し、祈り、イエス様が行ったような癒しの業をなしていたのです。
 さらに神殿ということで見ていきますと、エレミヤ書7章4節では、エレミヤの時代、「主の神殿、主の神殿」と、神殿で叫ぶことによって救いが我がものとなると思い込んでいる人たちが居たことが語られています。それに対し、エレミヤの預言の言葉は「主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」、さらにお前たちの行いを正せ、互いの間で正義を行い、弱い立場の人々を虐げず、無実の人の血を流さず、また異教の神々に従うことがあってはならないということが語られています。
 この教会の前で、「イエス様の教会、イエス様の教会」と叫んで救われると思って実行している人がいるということを想像してごらんになってください。あまりにも滑稽な感じがいたしますが、エレミヤの時代、実際神殿の前で、「主の神殿、主の神殿」と叫んで、それで救いを得ていると思っていた人々がいたのです。神殿は、またこの教会は、神を礼拝する場所ではありますが、神殿、また教会それ自体が神ではないし、神殿、教会自体に救いがあるわけではありません。神殿は「神の名」がとどめられている場所であり、人間の作った神殿に救いがあると思い、「主の神殿、主の神殿」と言い続けていたとしたら、それは主なる神を礼拝しているつもりでも、神の神殿ですら、人間の思い込み、願望の投影=偶像礼拝にいつのまにか摩り替わってしまいます。
私たちは絶えず注意深く、自分自身がまことの神のみを見上げているか、吟味しなければ、何ものかによって信仰という宝が何ものかに摩り替わっている危険性が、いたるところに転がっているように思います。

 使徒言行録19章は、使徒パウロの第三伝道旅行に於ける出来事です。
 アンティオキアという地中海沿岸のパウロの伝道の拠点の町から、内陸地方、現在のトルコを通って、トルコ西部の町エフェソに来たパウロが、ティラノという人の講堂で2年以上に亘って、力強く主の言葉を宣べ伝えたことにより、「アジア州に住む人たちは、ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになった」(19:10)、そのような中で起こった不思議な出来事が語られています。
 使徒言行録は、時に聖霊行伝と言われることがあり、神の霊なる聖霊の目覚しい働きによって、初代キリスト教徒たちが強められ、イエス・キリストの十字架と復活の福音が、エルサレムを中心としたパレスチナを超えて、アジアからヨーロッパに向けて伝えられていった、その出来事が語られています。

 今日お読みした御言葉のはじめ、11節は面白い記述です。「神は、パウロの手を通して目覚しい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった」。
 パウロを通して、イエス様が行われたような奇跡が、聖霊の働きによって起こされたことが語られている箇所ではありますが、パウロが「身に着けていた手ぬぐいや前掛けを病人に当てると病人は癒され、悪霊どもは出て行く」のような記述は、聖書の中でもここだけです。ちょっと「まじない」めいた出来事に思えますが、それだけ、めくるめく、聖霊の力ある働きが起こされ、それが伝承として伝えられていたのでしょう。
 そのことはともあれ、パウロの行っていたことは、「主イエスの名を唱え」て行う、イエス様の為された業と同じ、神の奇跡でした。
 この「イエスの名」による「業」について、少し説明を加えますと、今日お読みした箇所の直ぐ前、19:10では、「だれもが主の言葉を聞くことになった」とあり、また、今日の御言葉の最後20節では「主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」とあり、今日の御言葉は、「主の言葉」、「言葉」と語られていることに挟まれて、特にパウロが何を語ったと記されているでもなく、ユダヤ人の祈祷師たちの上に、イエスの名を用いたことによって起こった出来事が語られています。
ギリシア語で、言葉とはロゴスと言いますが、これはヘブライ語のダーバール=言葉のギリシア語訳と考えてよいと思います。創世記1章に於いて、神は言葉を発することで、光を造られ、さらに言葉によってすべてのものを創造されました。神の言葉=ダーバールとはただ言葉に留まらず、出来事を生み出す言葉でもあります。
 10節と20節で語られている「主の言葉」というのも、ただ言葉に留まらず、言葉によって生み出される出来事を表し、イエス様もそうでしたし、パウロたち、使徒たちもそうなのですが、言葉による御言葉の宣教と、御言葉が力強く働くところに顕される神の業、奇跡が、絶えず、一対になって顕されて、宣教の業が広がっていったのです。御言葉と力ある業、この一対を「主の言葉」と、ここで語られていると言ってよいでしょう。
 ですから、「主の言葉」が聞かれる、広まるということは、語られる言葉に止まらず、言葉を通して引き起こされる出来事も含めて、人々に知れ渡り、力強く広がって行ったという意味となります。

 さて、ユダヤ人の祈祷師たちの中には、パウロの真似をして、試みに主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という者がおりました。「イエスの名」を唱えてみることによって、引き起こされる出来事に興味をもって、パウロのしていることと同じことを試してみたのです。
 この「祈祷師」というのは、ヤハウェ=主の名を用いて悪霊追放をしていた人たちのことで、紀元前2~3世紀頃には祈祷師の存在があったことが、旧約聖書続編の書物などに記されています。
 ある時、ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子の祈祷師は、悪霊につかれている男に向かって、「試しに」「イエスの名」を用いて試みに悪霊追放をしてみたというのです。自分たちの魔術をより強くするために、自分たちを祈祷師としてより高めるために、イエスの御名を「試し」に利用したのです。すると悪霊が彼らに言い返します。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と。
 悪霊にとって、イエス様、そしてパウロは敵わない相手だったのです。だから、畏れて名前を知っている。しかし、この七人の息子の祈祷師たちは、悪霊にとっては取るに足りない、力の無い者たちでありました。魔術をするということは、悪霊の働きの一部であり、同類の悪霊にとっては、恐れるに足りないのです。そして、悪霊に取り憑かれている男が祈祷師たちに飛びかかって押さえつけひどい目に遭わせ、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出したというのです。
 信仰の無いまま、「試しに」、自分の魔術の力を高めるために興味本位に「イエスの名」を用いることで、とんでもないことになってしまったという事件です。

 この出来事はエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡り、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになりました。
 18節では「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」、19節「また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」というように、罪の悔い改めと、魔術を行うために買いこんでいた書籍を焼き捨てたということが語られています。
祭司長スケワの七人の息子たちの出来事を見て、魔術を行っていた多くの人たちは恐れを抱き、「主の言葉」に聴き、立ち返り、自分たちの行ってきた悪行をはっきり告白し、イエスの名を信じる信仰に入り、それまで大切にしていた魔術の書物を、主の言葉に換えたというのです。
 それらの書籍の値段は、銀貨五万枚であったとあります。この銀貨というのは1枚で当時の労働者の一日分の賃金です。それが5万枚ということですから、1日の賃金を自給1000円で8時間労働として、一日8000円、それが5万枚ですと、現在の日本に於いては4億円ほどの値段のつくものであったということになります。
 書籍を焼き払った人がどれだけいて、また「魔術を行うための書物」が、どれだけの量のものであったか分かりませんが、4億円もするものであったということは、驚くべきことです。魔術を行うということは、それだけのお金をつぎ込むほどに、人々にとって魅力的なものだったのでしょう。
 そしてそのような魔術的な行為の根底にあるのは、超自然的な力、神的な力を人間それ自身が支配し、自由に用いたいという人間の欲望なのではないでしょうか。祭司長スケワの七人の息子たちに於いても同様でした。超自然的な出来事は、本来神的なものですが、神的なものすら自分が支配したい。そのように神的な力を支配するために、彼らはお金をつぎ込んだのです。

 神的なものを自分が支配したいという欲求は、イエスの御名を行使する信仰とは相容れることは出来ません。主なる神が、人間の建てた神殿に住むことは出来ないのと同様に、神を人間の手中におさめることなど出来ません。
 しかし神すら自分の手中に置きたがる人々が、どれだけいたのか。もしかしたら、銀貨五万枚=日本円にして4億円の魔術の本が焼き払われたのは、世のすべての人は、神を侮っており、何よりも自分中心であり、神、そして神のようなもの、神的なものをあがめると言いながら、心の底では神すら自分が支配したがっている、ということの象徴的な数なのではないかとすら思えます。

 私たちは、このような心の経験をしたことはありませんでしょうか。自分はある願いを神に祈った。しかし、それは叶えられなかった。そして「神なんていない」と言い放ったこと。願ったとおりに叶えられないことで、神に絶望したり、神を否定するならば、それは自分を神よりも高いところに置いているからなのではないでしょうか。叶えられない願い、それは神の御心ではなかったのかもしれません。しかし、私たちの祈りは、必ず神は聞いていてくださり、願ったとおりではなくとも、いずれ、必ず「あの時の祈りの答えがこれだったのだ」ということに気づく時が来ることでしょう。自分を神よりも高くするのではなく、神の御許に自分の命のすべては保障されているということに、どんな時でも、忍耐強く、希望を持つべきです。
 パウロは、また初代教会の使徒たちは、イエスの御名を用いた宣教でありました。自分を高めるためではなく、自分のすべては神の支配のもとにあるのであり、イエスの名、イエスの権威のうちに自分が神の働きのために用いられているのだということをはっきり認識し、ただ、イエスの名のために、神の愛のために、自分を神の道具としてささげ、イエスの名のために働いていました。
 祭司長スケワの七人の息子たちは、自分がより高められるために、イエスの名を試みに用いてみて、用いた悪霊にまでばかにされ、散々な目に遭わされました。また、魔術の書物を焼き払った人々も、魔術を自分がより高められるために、神すら自分が支配したいがために魔術を行っていたに違いありません。しかし、魔術の書を焼き払った人たちは「主の言葉」によって悔い改め、自分たちの悪行をはっきり告白しました。人はたとえ罪を犯しても、告白と悔い改めによって救われます。

 さらにイエスの御名は、イエスの権威は、私たち人間が自分自身のすべては神のものであるということを認め、自分を神のもとに低くし、謙遜に、忍耐強く、主のために自分を献げるときにこそ、力を発揮するのだということを、私たちは覚え、またイエスの御名を大いに用いたいと願うものです。
 私たちは、祈りの終わりに「イエス・キリストの御名を通してこの祈りをささげます」「イエス・キリストのお名前によって祈ります」のように祈ります。これは、私たちがささげた祈りが、イエスの名によって、イエスの権威のもとに神に届けられる。俄かに信じがたいかもしれませんが、私たちのつたない祈りが、イエス様の祈りとして神に届けられる祈りの言葉なのです。「イエスの名」による祈りを、私たちは大切にし、また、祈るときには、神の愛のうちにすっぽりと包まれて、心からの祈りをささげたいと願うものです。

 心から神の御前に自らを低くし「イエスの名」を通して祈る祈りは、イエス・キリストの権威と力に満たされます。たとえ、小さなつぶやきのような祈りであっても、心からささげる「イエスの名」による祈りは、必ず事柄を起こしてくれることでしょう。すぐに起こる事柄でも、願ったとおりの事柄が起きるわけでもないかもしれない。しかし、イエスの名による祈りは、必ず神に届けられ、神は必ず祈りに対する答えを、御心を顕してくださる日が必ず来ます。
 まっすぐに、私たちの神を見上げ、イエスの名によって祈りましょう。その時、祈る私たちと私たちのささげる祈りはイエス・キリストの権威に満たされます。