聖書 ルカによる福音書16章19~31節
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(31節)
「与えない者の末路」
今日は皆さんの心が少し騒ぐような説教題としました。礼拝では神の恵みを語ることが多いのですが、今日は自戒を込めて本日与えられた聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。神は愛です。この愛は私たちを成長させる愛ですから、神は私たちのために厳しい言葉もかけられます。私たちは厳しい言葉も受け取ることによって創造の時の姿に戻っていくことができます。このような意味で本日の聖書の御言葉を聞きたいと思います。
ルカによる福音書16章19節から30節はイエス様が語られた「金持ちと貧しい人ラザロのたとえ」が書かれています。イエス様がこのたとえを話された理由は13節から15節にあります。イエス様が「神と富とに使えることはできない」と言われると、ファリサイ派の人々はイエス様をあざ笑いました。彼らはお金に執着していたからです。ファリサイ派の人たちは律法を厳格に守る人々であり、お金を持っていることは神に祝福されていることだと考えていました。たとえば旧約聖書の創世記24章35節にはにはアブラハムが主に祝福され裕福になったことが召使いの言葉として語られています。
しかし本日の箇所の少し前の14節に「金に執着するファリサイ派の人々」と書いているように、「裕福でお金を持っていること」と「お金に執着すること」とは大きな違いがあります。ファリサイ派の人々はお金に心を奪われてお金から離れられないという欲望の罪を犯していました。そこでイエス様はファリサイ派の人々に「神はあなたたちの心をご存知である。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるのだ」(15節)と言われました。16章19節から30節のたとえは金に執着しているファリサイ派の人たちに語られたものです。
19節から20節はこの世での金持ちと貧しい人ラザロの様子が描かれています。貧しい人は食べる物がなく金持ちの家の門前に横たわって金持ちの食卓から落ちるものでもいいから食べたいと思っていました。金持ちは贅沢に遊び暮らしていました。当時の常識によれば貧富は神がお決めになるもので仕方がないものというものでしたから、金持ちが非難されて貧しい人が憐れまれるということはなかったようです。箴言22章2節には「金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。」と書かれています。これが金に執着するファリサイ派の考えだったと思われます。つまり理由は分からないが神は金持ちと貧しい人をお造りになったという理解です。
ところが、同じ箴言には貧しい人や弱い立場にある人々に神が特別に目を留めておられることが記されています。箴言22章22節には「弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして、貧しい人を城門で踏みにじってはならない。」という言葉が書かれています。また詩編22編25節には「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。」という言葉があり、詩編37章11節には「貧しい人は地を継ぎ豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」と書かれています。このように、主は貧しい人に目を留めておられるのです。律法の書のひとつである申命記にも「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」(10:17~18)と記されています。孤児や寡婦や寄留者は貧しい人の代表です。この言葉から、ファリサイ派の人々は律法を厳格に守ると言いながらも、自分たちの都合の良いように聖書を解釈していたことが分かります。
さて、金持ちとラザロの境遇は死んだ後に逆転します。ラザロは祖先のアブラハムのすぐそばで宴席に着き、金持ちは陰府で苦しめられました。金持ちの目には宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロが、はるかかなたに見えました。金持ちは炎の中で渇いており1滴の水でも良いので欲しいとアブラハムに願いました。するとアブラハムは金持ちに『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』と言いました。
このたとえはこの世で報いを受けなかった貧しい人を慰めるためのものではありません。貧しい人を自分と同じように神に祝福されている人として助けを差しのべようとしなかった金持ちの行きつく先が、神の秩序に従えば陰府の苦しみであることを示すものです。
15節を思い出せば、この金持ちの生き方は「神には忌み嫌われるもの」でした。従って、もし貧しい人がもっと貧しい人に対して金持ちのように振舞うならば苦しむことも当然あてはまります。
金持ちは自分の置かれた状況を理解したと思います。それで次に、自分の兄弟たちにラザロを遣わして、自分と同じ場所に来ることのないように言い聞かせてくださいとアブラハムにお願いしました。アブラハムは金持ちに『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』と答えました。金持ちが『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』と反論すると、アブラハムは『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』と言いました。
金持ちの願いはかなえられませんでした。金持ちは結局、悔い改めることはなかったことが分かります。悔い改めて神の御心をおこなうことなしに陰府の苦しみから解放されることはありません。
神はこのたとえを通して人がどう生きるかを示しておられます。神は人をお造りになり祝福されました。すべての人が神に祝福されています。ですから貧富の差によらずに、それぞれに与えられた生を充足させることができます。
金持ちは自分が持っているものを分けることで生を充足させることができます。それは他者との豊かな交わりという喜びを得るということです。貧しい人は生きるためにそれを受け取り人々のために働くことことで、やはり他者との豊かな交わりという喜びを得ることができます。私たちは一人で生きるように造られたのではなく、すべての人が神の祝福を受けて生きていることを知り、互いに愛し合って生きるように造られています。このことを告げる預言者はすでに世に現れましたし、御子イエス様も世に来られてこのことをお示しになりました。
テレビ小説『あんぱん』が先週終わりました。最終回で「命は賜物」というBGMの歌詞が、余命わずかの柳瀬のぶさんと柳瀬嵩さん夫婦が互いの思いや人生を語り合いながら歩く場面にぴったりで心に響きました。二人は太平洋戦争の体験を通して「逆転しない正義」を求め続けました。そして食べる物がなくてお腹を空かせている人に自分を犠牲にして食べ物をあげることだという考えに至りました。その思いを結実させたのがアンパンマンでした。
「なんのために 生まれて、なにをして 生きるのか」。この答えはすでにイエス様が教えてくださいました。自分が持っているものを分かち合うということです。考えてみれば私たちが持っているものはすべて神さまが与えてくださったものです。ですから分かち合うことが自然の姿であり、神に喜ばれる生き方です。互いに見返りを期待しない無償の愛で愛し合うことの具体的な行動です。持っているものを与えることで、お金では買うことのできない豊かな愛の交わりを私たちは手に入れることができます。この言葉を実行してみてください。アンパンマンのように傷ついたとしても豊かな交わりを得ることができるでしょう。
私たちは今日、イエス様の譬え話を通して、与えない者の末路を知りました。イエス様は金持ちが駄目だと断罪しているのではありません。貧しい人を助けなさいと言われているのでもありません。金持ちには金持ちの果たす役目があり、貧しい人は受けるだけではなく与えることがなければ陰府の苦しみを受けるかもしれないということを言われているのです。何も与えるものがないという人はいません。すべての人に神さまが与えてくださっているものがあります。この意味でイエス様が話された「金持ちとラザロ」のたとえは貧しい人と金持ちという区分を無効にしています。イエス様はどんな人もその人が持っているものを与えるようにと教えています。それはお金に限ったことではありません。一番大きなプレゼントは相手を思いやり何かをせざるを得なくなる愛です。