10月5日礼拝説教「神に奉仕する」

聖書 テモテへの手紙2・1章10~14節 ルカによる福音書17章5~10節

自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。(ルカ17:10より)

あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(Ⅱテモ1:14 )

「神に奉仕する」

私たちは2週間後の10月19日に伝道礼拝を行います。このために役員会を中心として準備を進めてまいりました。伝道礼拝をする意味は、心の中の束縛や社会での束縛から救われる人が起こされることを願って、キリストの教えを多くの人に知っていただくことです。礼拝出席者を増やすために伝道礼拝をするのではありません。ひとりでも多くの人がキリストの教えを聞いて希望の光を見い出していただきたいと願いたいと思います。この思いを共有して伝道礼拝にお誘いしたいと思います。

伝道礼拝をお知らせすると共に土気あすみが丘教会を紹介するチラシが出来上がり、本日の新聞折込であすみが丘とあすみが丘東のご家庭に6,300枚を配りました。その他に個人配布で700枚の合計7,000枚を配ります。チラシをご家族、友人、知人に配って誘っていただければ幸いです。伝道礼拝に参加するかしないかは受け取った人の自由で、参加を強制することはできませんが、私たちに委ねられている良いもの、つまり福音をお伝えすることは私たちの自由であり、また本日の御言葉によれば使命ではなかろうかと思うからです。

 

本日はテモテへの手紙2の1章10節から14節ルカによる福音書17章5節から10節が与えられました。私はこの2つの箇所を黙想して、これは福音を宣べ伝えるようにという勧告であろうと受け止めました。そのことをお証ししていきたいと思います。

テモテへの手紙2は教会の指導者に向けて書かれたものです。しかしすべてのキリスト者が知っておくべきものとして聖書の文書に入れられました。1章10節に「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。」と書かれています。この「明らかにされたもの」とは9節の「神のご計画と恵み」のことで、「神が私たちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださった」(9節)のです。神はすべての人を招いておられますが、それに応える人と今は応えていない人がいます。いつまでも応えない人もいるでしょう。なぜそのようなことになるのか。
人に意思をお与えになった神は信仰を強制しないで忍耐されておられます。ここに人間をいつまでもどこまでも導こうとされている神の愛があります。この意味で、神の招きに応えた人々は神が憐れんで召し出してくださった人々なのです(ローマ9:16)。

10節後半の「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」はイエス様がご自分の十字架の死と復活を通して、死を滅ぼし不滅の命―すなわち永遠の命を現してくださったということを表しています。死は私たちの恐れの究極のものです。人はどんなに栄華を誇っていても死によって終わりを迎えます。どんなに充実した人生、楽しい人生でもそうです。死にたいと思うほどの苦しみを受けていても死を恐れることに違いはありません。この究極の恐れをキリストが滅ぼしてしまわれたのですから、すべての恐れは滅ぼされました。絶望や、無気力や、罪に堕とされることなど、生きる気力を失わせるものすべてが滅ぼされました。人は肉体の死を迎えますがキリストを信じるならば永遠の命を得ることができるからです。

11節でパウロは「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。」と書いています。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから直々に任命されました。その意味でパウロの言葉は真理です。

パウロは自分が苦しみを受けていることを告白していますが、それを恥じてはいません(12節)。なぜならパウロはキリストを知っており、パウロに託されたもの―すなわち福音をキリストが再臨する日まで保ち続けさせてくださることを確信しているからです。

パウロは13節、14節で私たちに、「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」と勧告しています。「健全な言葉」と「あなたにゆだねられている良いもの」とは福音のことです。

 

次にルカによる福音書17章5節から10節に聞いてまいりましょう。本日はイエス様の言葉をテモテへの手紙と関連付けて聞いてまいりたいと思います。

5節に『使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言った』と書かれています。「増してください」という願いですから、弟子たちは信仰の量を問題にしていたことがわかります。それに対して6節でイエス様は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と応答されました。イエス様は信仰の量が問題なのではなく、そもそも信仰があるかどうかが問われなければならないことを教えています。

先週の礼拝後にマルタの会の例会がありました。私はエフェソの信徒への手紙2章14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊しました」という御言葉を中心に奨励を行い、その後、司会者の「それぞれが経験した分断を話してください」という発言に促されて、皆さんがいろいろな体験を話してくださいました。コンビニの店員さんの早口の言葉が分からなかったお話は皆さん経験があるようで笑いが起きましたし、それぞれの人が語る分断の経験も身につまされました。私たちはいろいろなところで分断を経験します。そこで私たちは試されています。つまりこの世界の理解において「聖書はキリストが分断という壁を取り壊したと語るけど、現実にはいろいろな分断がある」と理解するか、「現実にはいろいろな分断があるけれども、キリストは分断の壁を取り壊して平和をもたらした」と理解するかでは大きな違いがあるということです。マルタの会の皆さんは当然、後の方の理解だったわけで、それを理解しつつも、現実の分断の経験を語ったのです。

実は先週私も似たような経験をしました。チャイムが鳴ったのでインターホンに出ると「うういんくう」と聞こえたのです。「は」と返事すると、また「うういんくう」と聞こえました。私がもう一度「は」と言うと、ようやくゆっくりと「郵便局です」と言ってくれました。小さな出来事ですがこれも分断でした。しかしこの分断は何度かのやりとりで解消されました。ここでの忍耐は小さなものですが、大きな分断に対しては大きな忍耐を必要とすることは間違いありません。しかし分断の壁はキリストの平和によって乗り越えられるのではないかと思います。信仰とは神を信じ、神の力を信じることです。イエス様はこのことを弟子たちに教えたのだと思うのです。

さて7節から10節のイエス様の「主人としもべのたとえ」は私たちを困惑させます。あなたが主人で、しもべがいたとして、そのしもべが用事を済ませて帰って来た時にねぎらいの言葉をかけるのではなく、次の用事を言いつけるのです。するとしもべは自分に命じられたことをすべて果たしたら「『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と言われます。

こんな主人でありたくないと思うのではないでしょうか。また一方で、自分がしもべならこのような人を主人に持ちたくないと思うのではないでしょうか。この関係は神と私たちの関係を語っているわけですからこれはどういう意味なのかを知らなければなりません。

私はテモテへの手紙との関連においてこの言葉を黙想しました。テモテへの手紙2の1章12節でパウロが「というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」という言葉に鍵があると思わされました。つまり神のしもべである私たちはイエス様がどのようなことをなさった方かを知っており、そのことに信頼していて、自分に委ねられているもの―つまり使命をイエス様が守ってくださるということを確信している、ということです。そしてまた、このしもべは主人を愛しているし、主人もしもべをこの上もなく愛しているという愛の関係が前提にあることは間違いありません。この確信があるからこそ、私たちに出来ることを喜んでしていくことができるのだと思います。

イエス様が『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさいと言われるのは、イエス様が召してくださったことに対する応答としての奉仕がイエス様によって豊かな実を結ぶということではないかと思います。報酬を当てにしないのは無償の愛の行いです。イエス様が私たちに先んじて私たちに無償の愛を注いでくださいました。私たちは自分の価値を知りません。だから「取るに足りないしもべ」なのですが、しかし、私たちは神さまによって価値ある者と認められています。

伝道礼拝のためにチラシを配るのは時間も体力も使います。チラシを7千枚も配っても来てくれる人いないのではないかと思うかもしれません。チラシを配布することにどのような意味があるでしょうか。このことのために役員会ではいろいろな議論をしました。チラシを配布する意味として3つのことを確認しました。第1に伝道礼拝にお誘いするということです。伝道礼拝を知っていただくためにチラシを配ります。第2にこの場所に教会があることを知っていただくことです。近くに教会があることを知っていてくだされば必要を感じた時に思い出して来て下さるかもしれません。

第3に御言葉を必要としている人に出会う、という意味があると考えています。この第3の意味ですが、イエス様は100匹のうち1匹がいなくなっても探して見つけ出して喜ぶ羊飼いのたとえ(ルカ15章)を話されました。私たちは聖書を必要としている人がどこにいるかを知りませんから、出て来ていただかなければなりません。チラシはその役目を果たします。仮に7千枚のうち99%が捨てられたとしても、残り1%の70枚がそのような人に届くならば決して無駄ではないと思います。

私たちは私たちが招かれたように、招かれるべき人たちがいることを信じることからこの奉仕は始まります。現実はチラシを配ってもほとんど教会に来ないわけですが、チラシは必ずその働きをおこない聖書の言葉を必要としている人に届くと確信しています。

 

一方で最近、病気や体力の衰えのため礼拝に出席できない人が増えてきました。そのような人たちがイエス様や私たちとつながることができるように教会からの便りや励ましの手紙を送り続けています。そのような方たちのために祈っています。もっとできることはないかと考えています。教会はそのようにして主にある暖かな交わりの場を保ち続けたいと願います。

道と牧会―すなわち牧師や信徒同士による魂のケア―は教会の働きの両輪です。私たちは一人もかけることなく共に神の国を目ざしています。この交わりにもっと多くの人が加わり喜びがますます大きくなるように祈りつつ伝道の奉仕にあたりたいと思います。