「イエスの与える水」(2017年7月30日礼拝説教)

出エジプト記17:3~7
ヨハネによる福音書4:1~26

 暑い夏、殊更に喉が渇き、冷たい飲み物が欲しくなる季節です。私はこの季節紫蘇ジュースを作りますが、氷の入った冷たいジュースが喉を通る時、ほっとします。飲むことでひととき満たされます。でも、それはほんのひとときです。すぐにまた喉は渇いてしまいます。
 しかし、イエス様のお与えくださる水とは、飲む者が「決して渇かない」水であると仰います。さらに「わたしの与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とまで言われるのです。
 イエス様の与える水とは何か。少し先ヨハネ7章37節から、イエス様は次のように語っておられます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。ここでは著者ヨハネの解説として、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」と語られています。イエス様が与える水とは聖霊。信じる者に与えられ、その人の内から生きた水が川となって流れ出るような、尽きぬ命の泉なる神の霊。イエス様の十字架と復活という神の救いの御業の成し遂げられた後、今の時代、信じる者たちに与えられている復活のイエス・キリストの霊。そして今、私たちと共に居て下さり、私たちの内側から変革を起こしてくださる神の霊なる聖霊を指します。信仰によって、神の霊なる聖霊が、信じるものたちに与えられ、渇く事のない命の泉として私たちの内側から流れ出る、それがイエス様の与える水であると言うのです。

 さて旧約聖書で「人間」を表す言葉はいくつかありますが、その中のひとつが、私が度々お話しをさせていただく、私が神学校の卒業論文のために調べた言葉、「ネフェシュ」です。命ですとか、魂とも聖書の中で訳されている言葉ですが、「私自身」の「自身」という再帰代名詞として、その人自身を強調する表現として使われていたりします。
 そのように多様に神によって造られた人間を表す言葉なのですが、ネフェシュの語源は体の器官である「喉」に由来します。
人間は飲み、食べ、また排泄もします。その循環で体は保たれています。その循環が無ければ人間(すべての生き物)は生きることが出来ない。飲み食いが無ければ、人間は飢え渇く存在です。その存在自体、そのままでは生きられない。さらに友情も、恋をして人を慕い求めるその感情もネフェシュという言葉で表されていました。これらは、喉の渇きから派生する、「渇望」ということなのでしょう。ネフェシュは常に飢え渇き、何かを求めている。
 そして私自身が到達したところでは、ネフェシュとは「存在それ自体では生きられない弱い人間」であり、他者を求め、究極的に神を求める存在であり、神に出会い赦されることなしには満たされることはない、そのような存在であると理解出来ました。このことは、ネフェシュという言葉の使用方法を通して発見した、私の大きな収穫でした。
  
 それにしても、私たち人間は喉が渇くだけでなく、心に何か物足りなさを感じた時、そわそわして、手っ取り早い解決方法を見つけようとしたりします。寂しさを埋めるために、安易に人を求めることもある。今日の御言葉に登場するサマリアの女について、イエス様は「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と、彼女のこれまでの生活を言い当てておられます。おそらくこの女性は、何をやっても物足りない、誰かを愛して連れ添ったつもりでも、相手を物足りなく思い、人を換えれば自分が満足出来るのではないかと思い、次々と夫を換えることを繰り返してきた女性なのではないでしょうか。いえ、もしかしたら次々に夫に捨てられた女性なのかもしれない。次々と夫と死別したのかもしれない。そうであっても、すぐに別の相手と結婚をするタフな女性であると言えます。当時の女性の立場は今よりも数段低く、ひとりで生きることなど不可能に近い状態だったとは思いますが、目の前にいるその男性自身を真剣に愛し、また愛されゆえに結婚をしたのではなく、自分の目の前の必要を満たすために、次々と新しい夫を得て暮らしていた。そして、今は、夫ではない、内縁の男性と一緒に暮らす女性。そのような女性のもとに、イエス様はその宣教の始め、来られました。

 4節に「サマリアを通らねばならなかった」とありますが、しかしこの道は、通常ユダヤ人は通らない道でした。
 サマリアというのはダビデ、ソロモンによる統一王国が南北に分裂した後、北王国イスラエルの首都であった町です。しかしアッシリアの侵攻によって、北王国イスラエルは滅亡します。その時、首都サマリアにいた主だった人たちはアッシリアに捕らえられ、サマリアには庶民だけが残されました。そこへ、アッシリアの王は、イスラエルにとっては異教の人びとをサマリアに送り込み、二度とこの町がアッシリアに歯向かわないように政策を取ったのです。他国からさまざまな人がサマリアに入ってくることで、徐々にもともとサマリアにいたイスラエルの民と、他国からの外国人が結婚をしていき、純然たるイスラエルではない、混血民族がサマリアには住むようになっていきました。民族の純潔を重んじるユダヤの民は、サマリアの人々が混血してゆくさまを忌み嫌いました。またその後の時代もさまざまな軋轢がありまして、とにかく断絶状態、仲違いをしていたのです。サマリア人はゲリジム山に神殿を持ち、ユダヤ人はエルサレムに神殿を持っていました。そして互いをののしりあい、ユダヤ人はサマリア人を律法に基づく汚れた者として、その人が触ったものに触れることすら禁じられていました。
 そのサマリアの道をユダヤ人として世を生きられたイエス様は敢えて「通らなければならなかった」。ここで原語で使われている「dei」。このしなければならなかった、必要があったという言葉は、神のご計画の必要を表す言葉です。
 それは、サマリアの女、と呼ばれるひとりの異邦の女性に出会うため、彼女の人生の渇きに、彼女の罪に神は目を留められ、憐れまれたから。ひとりの人に出会い、救いに導きいれるためでありました。そのために、イエスさまはシカルというサマリアの町を敢えて通らなければならなかったのです。

 真昼の12時ごろ、疲れを覚えられた主は、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸の側に座っておられました。
 昼の12時と言いますと、日が昇り、非常に暑い時間であり、そんな時間に水を汲みに来る人はまずおりません。井戸は社交場で、皆水を汲む仕事は夕方の涼しくなった時間帯であったと言われております。しかし、彼女は社交場の仲間になることは出来なかったのです。人が彼女を見ると、「夫を次々に変える女」という白い目で見られてしまう。そのためこの女性はおそらくは人目を避けて行動をしていたのでありましょう。

 弟子たちはこの時、食べ物を買うために町に行っており、イエス様はひとりでした。
 主はこの女性に語りかけられます。「水を飲ませてください」と。御自分が与える水を飲む者は、決して渇かないと言われるそのお方が、この女性からの水を求められました。この女性の持ちうるものは、飲んでも飲んでも求めても求めても満たされることのない水です。主は、この女性と同じ立ち位置に降りてこられ、この女性からの水を求められたのです。イエス様はこの女性の人生の立ち位置にまで来られ、この女性と深く関わろうとされています。

 しかしこの女性は、そんなことに気づきません。変なユダヤ人だな、くらいに思ったことでしょう。イエス様に対して冷たく皮肉交じりに答えます。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしにどうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と。イエス様は答えられます。「もしあながた神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう」と。
 この言葉に対し、彼女の返答は、「主よ」とイエス様を呼ぶ返答をいたします。しかし、おそらくこの「主よ」という言葉は、本心からのものではない。変わった人の気を損ねないでその場を穏便に済まそうと思って出たからかい半分の言葉なのではないでしょうか。そして「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と、サマリア人そしてユダヤ人の祖先でもあるヤコブを引き合いに出して、さも理論的に、冷静な答えをします。彼女は本心を出そうとはしない。イエス様はこの女性のもとに来られ、この女性と深く関わろうとしておられるけれど、この女性はイエス様に心を開こうとはいたしません。
 それに対し、イエス様は「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と答えられました。
 この言葉を聞いて、彼女ははじけたように答えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と。彼女にとって、炎天下の中、人目を避けて水を汲みに来なければならない暮らしは辛いものだったに違いありません。それをしないでよい暮らしはどれほどせいせいして良いだろうと思ったのではないでしょうか。―そんなものあるわけない―彼女の内心はそのようなものだったでしょう。そして、嘲笑うかのように「それが出来るならしてみて」と言わんばかりに、この言葉をイエス様に向けて投げたのす。
 そんな彼女にイエス様は唐突に、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。それまで本心を見せず振舞っていたこの女性は、一瞬凍りついたのではないでしょうか。このことは彼女にとって最も避けたかった話題であったに違いありません。彼女の人生の陰の部分、彼女の生活の暗闇がイエス様に出会い、突如そのまなざしの前にさらされたのです。彼女はイエス様が打ち明けない先から彼女自身のことを知っておられたが分かり、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言います。しかし、彼女は尚彼女自身の暗闇がさらけだされることを避けようするかのように続けます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と、あくまで自分自身の問題から目を逸らさせ、サマリア人とユダヤ人の問題に摩り替えてあたかも理論的に、夫の話はないもののように話をしようといたします。彼女は気が強く、なかなか本心を表さない。
 そのような彼女に対し、主は言われます「婦人よ、私を信じなさい」と。「信じなさい」これは主の憐れみの言葉です。無理をして議論で繕わず信じなさい、すべての源である私に自分のすべてをそのまま明け渡しなさい、そうしたら大丈夫だから、と仰るのです。

 彼女は、イエス様に出会い、自分の内側に光が照らされ、一人の罪人として主の御前に立たされました。イエス・キリストに出会うということは、自分自身のありのままの姿を認めることから始めねばなりません。主に出会い、主のまなざしの前に私たちが立つということは、私たちの暗闇に光が当てられることです。私たちが何に飢え、何を求めながら傷ついているか。そのようなことすら覆われているものが明らかにされ、私たちはありのままの姿で主の前に立たされるのです。
 イエス様は、彼女の破れの多い過去も、何をやっても、連れそう人を替えても、決して癒されない、何をやっても満たされない心があることを御存知でした。そんな不完全な、罪多き彼女に、主は「わたしを信じなさい」私にすべてを明け渡しなさいと言われたのです。そのために、この女性を救うために、イエス様はサマリアを通らなければならなかったのです。

 私たちの内側にも、この女性のような渇きや罪、人に対してはとても言えないような暗闇はないでしょうか。私たちは絶えず喉が渇き、お腹が空きます。それだけではない。心が乾き、その渇きを目の前にあるもので安易に満たそうとする者たちではないでしょうか。真実を求めたいと願いながらも、目の前にある一番安易なことで自分を満たすことで、その場を凌ごうとしていないでしょうか。
 しかし、旧約聖書の言葉でネフェシュと呼ばれる弱い人間の渇きは、神を求め、神を見出ださねばまことに満たされることは出来ません。
 この女性は、イエス様、神に出会いました。いえ、イエス様の方から彼女のところに敢えて来て下さった。イエス様は失われた者を探し、救うために来られたお方であるからです。そして私たちがここに今いること。それは、そのはじめ、私たちのうちにあった言葉に出来ない呻きや悔恨、行き場のない思いや生きる状況に置かれた私たちを、神は私たちを見つけ、見いだし、憐れみ、神の方から近づいてくださったのではないでしょうか。そして「信じなさい」と言って、この礼拝ヘと招いて下さったのではないでしょうか。

 主の前にひとりの罪びととして立たされた彼女を、主は新しい礼拝へと招かれました。それはサマリア人とユダヤ人が、ゲリジム山だ、エルサレムだと言ってひとつの場所を争う礼拝ではありません。民族間のいざこざが持ち込まれるような礼拝でもありません。「霊と真理をもって父を礼拝する時がくる」、そのようなまことの礼拝に招かれます。
 主を信じて、主に自らを明け渡すことによって、渇くことのない水=聖霊を与えられるわたしたちが、わたしたちのうちにおられる、与えられた聖霊と真理をもってささげる礼拝です。礼拝とは、主の十字架と復活の御業をわたしたちのうちに新たにさせ、恵みの業を新たにさせ、その恵みに私たちが讃美と感謝をもって応答し、主の恵みの業に自らを投げ込み、恵みに参与していく信仰の行為です。

 主は「信じなさい」と言われ、サマリアの女をご自身のもとに招かれました。「信じなさい」これは主の命令であり、明確な促しです。そして今、私たちにもただ「信じなさい」と言われ礼拝に招いておられます。ただ「信じる」信仰によって私たちはまことの神との深い関わりに入れられ、新たにされるのです。信仰によって私たちは、渇くことのない、水=聖霊をイエス様からいただけます。聖霊なる神は信じる者の内側にお住まいになられ、弱く心の定まらない者たちを、イエス様に似た性質へと変革を促してくださいます。パウロは申しました。「わたしたちは皆、顔の覆いをのぞかれて、鏡にように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、首都同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによるものです」と。
 信仰により私たちは主の霊であられる聖霊を受け、罪あるものがイエス様と似たものへと造り変えられていく。自己中心的で、刹那的に目の前のことだけに翻弄され、なかなか神を知ることに到達出来ない者たちを、忍耐強く、憐れみに富む神のご性質へと変えられるのです。

 イエス様は私たちをも憐れみ、礼拝へと招かれました。信じ、自らを主におゆだねし、霊とまことをもって週のはじめの日の朝、礼拝をささげることから始めましょう。神は飢え渇く私たちを、ご自身によって満たし、尽きることの無い泉にしてくださろうとしておられます。なぜなら、私たちは、神によってしか、イエス・キリストによってしか、まことに命が満たされることは無い存在であえるのですから。
 神は、イエス・キリストは、私達を今も招いておられます。主の愛に応えて生きましょう。