聖書 テモテへの手紙Ⅱ 2章8~13節、ルカによる福音書17章11~19節
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。(Ⅱテモ2:8)
イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:19)
「キリストと共に生きる」
キリスト者は復活のイエス様、キリストと共に生きています。毎週日曜日の礼拝に集い、神を賛美し、御言葉によって希望をいただいて、この世での務めを果たす生活はリズムがあり心地良いものです。しかし私たちがこの生活から離れてしまう誘惑があることを忘れてはなりません。本日は聖書の御言葉を通して私たちの信仰生活を振り返りたいと思います。
イエス様がどのようなお方かということを私たちがしっかりと知っておかないと、救いから漏れてしまうことになりかねません。たとえば旧約聖書と新約聖書を用いていてもイエス様を救い主キリストとしない教えがあります。この違いによって私たちがイエス様の贖いによって罪から救われるか、私たちが自らの努力によって罪に陥らないようにしなければならないかという根本が変わってしまいます。イエス様の贖いを信じることがなければ私たちは罪から離れて清くなるために絶望的な努力をしなければならなくなりますし、そのような努力をしても罪から救われることはないわけです。イエス様はどのようなお方かについて本日与えられた聖書の御言葉に聞いてまいりたいと思います。
本日はテモテへの第2の手紙2章8節から13節とルカによる福音書17章11節から19節が与えられました。テモテへの第2の手紙2章8節に「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」と勧告の言葉が書かれています。パウロが伝える福音の中心は、「イエス様はダビデの子孫であり、死者の中から復活されました」というものでした。これは4つの福音書が証ししていることでもあります。イエス・キリストは血統によればダビデの子孫です。そして死者たちの中からよみがえられたお方です。いまだかつて死者の中からよみがえった者はいません。生き返ることとよみがえることは違うことです。よみがえることは朽ちる体から朽ちない体に生まれることであり、このことを行うことができるのは神以外にはおられません。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」の「思い起こしなさい」は心に留めることを意味します。知識としてではなく心にイエス様を留めることは、言い換えれば私たちに聖霊が住まわれるということです。聖霊は私たちにキリスト・イエス様を思い出させてくださいます。
9節を私の訳でお示しします。「この福音のために、私は犯罪人のように監禁され苦しんでいますが、神の言葉は今でも縛られてはいません。」と書かれています。パウロは犯罪人のように監禁されて苦しみを受けています。しかしパウロが福音を語ることが出来なくても神の言葉は広まっていることが示されています。
それはどうしてかと言うと、10節の言葉に表されています。「だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」
「選ばれた人々」とはパウロの告げる福音を聞いてイエス様を救い主と信じた人々のことです。この人たちがパウロに代わって福音を伝えているのです。福音は誰か特別な人だけが伝えるのではありません。福音によって因習や欲望などの束縛から自由になり、永遠の命に生きる喜びを知った人たちが伝えるのです。このようにして神の言葉は広まっていきました。
11節に「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。」と書かれています。これは私たちキリスト者が復活のイエス様キリストを救い主と信じて洗礼を受けたことを表しています。洗礼は古い自分が死に、聖霊を受けて新しい自分に生きることだからです。
12節に「耐え忍ぶなら」と書かれています。この言葉は「何かの下に踏みとどまる」ことを意味します。つまり「福音のもとに踏みとどまるならば」という意味です。そうするならばどのような困難な状況にあってもキリスト者はキリストと共にこの世界を治めることになるでしょう。それは王になることではなく、この世界を神が造られた良いものとして管理していくことを表しています。しかしキリストを救い主と信じないで否定するならば、その人はキリストから否定されるでしょう。パウロは福音に踏みとどまることに対する祝福とそれから外れる場合の呪いを告げていますが、これは福音に踏みとどまるようにという強い勧告なのです。
さらに13節でパウロは「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」と告げて、キリストが私たちを福音に留まらせてくださることを語っています。これは私たちが努力をしなくても良いということではなく、私たちがおこなう福音に留まる努力をキリストが支えてくださるということです。
私たちが福音に留まること、それはイエス様がまことの王ダビデの子孫に属しており、ご自分の命を懸けて私たちを守ってくださったということ、そして神の力によって死者の中からよみがえられて今も私たちを守ってくださっているということを信じることです。
ルカによる福音書17章の出来事はイエス様が私たちを清めてくださるお方であること、そして私たちはイエス様のところに戻ってくる者であることを教えています。
ガリラヤ地方の人々はエルサレムに巡礼する時は仲の悪いサマリア人の住むサマリア地方を通らないでヨルダン川沿いの道を通っていました。しかしイエス様は敢えてサマリアと接するところを通ってエルサレムに向かいました(11節)。
サマリアとガリラヤの間の村はユダヤの中でも辺境の地でした。そこにはサマリア人とガリラヤ人が住んでいて、ここに出てくる10人の重い皮膚病の患者にはサマリア人とガリラヤ人がいました。通常であればこのようなことは起きないのですが、社会的に排除されている者同士がひとつのグループを作っていたのです。彼らはイエス様を出迎えますが近づかないで遠くの方に立ち止まったままでした(12節)。
彼らは遠くから声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(13節)と願いました。彼らはイエス様を霊能者の一人と理解していたと思われます。イエス様は癒しの業を行われるという噂はこの村にも届いていたのでしょう。彼らはイエス様を主なる神として呼びかけているのではありません。
14節でイエス様は彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と命じられました。そして彼らはイエス様の命令に従って祭司たちのところに向かいました。祭司たちの所に行く途中で彼らは清められたのです。イエス様の言葉には重い皮膚病を癒す権威がありました。
ここでこの出来事は終わりではありません。15節から新たな展開が始まります。10人のうち一人だけは祭司のところに行く前に、大声で神を賛美しながらイエス様のところに戻って来ました。彼はまだ祭司に診てもらって治ったと宣言してもらっていません。従って社会的に排除された状態のままでです。それにもかかわらず彼はイエスさまのところに戻りました。彼は神に感謝すべきことに気が付いたのです。神のみが重い皮膚病をいやすことがお出来になることを彼は理解したから、神を賛美したのです。
彼はイエス様に出会ったときは遠くから大声で叫びましたが、今度はイエス様のそばに行き、足元にひれ伏しました。そして癒されたことを感謝しました。この人はサマリア人だと書かれています。このサマリア人はユダヤ人のイエス様を拝んだのです。これはイエス様を救い主キリストと告白する行為です。
清めたお方が救い主キリストであることはユダヤ人の方が理解できるはずですが、しかし、残りの9人はイエス様に感謝する心がありませんでした。それよりも一刻も早く祭司に体を見せて病気が快復したことを宣言してもらいたかったのだと思います。祭司は清い体になったかどうかを判断して、清いと宣言する権威を委ねられていますが、病を癒す権威は持っていません。病を癒し救ってくださるのは救い主であるイエス様なのです。
イエス様は神を賛美するために戻って来た者がサマリア人一人だったのを見て失望されました。本来ならユダヤ人こそ神を賛美するために戻ってくるはずだからです。救い主キリストはここにおられます。しかし神を賛美するはずのユダヤ人はキリスト・イエス様を無視したのです。
イエス様は、サマリア人がご自分を信頼する信仰によって救いを与えられました。これは病が癒されたこと以上に彼が救われたことを意味します。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」というイエス様の言葉はこのサマリア人が主と共にあって充実した人生を送ることを祝福している言葉です。きっとこのサマリア人は主を証ししたことだと思います。
この出来事から私たちは病が癒される奇跡はイエス様が救い主であることを示すしるしであることを知ることができます。神以外に重い皮膚病を癒すことのできるお方はおられませんし、それ以上にあらゆる束縛から救ってくださるお方はおられません。私たちの信仰を言い表わす使徒信条は要約すると「私は全能の父なる神を信じます。私はその独り子イエス・キリストを信じます。私は聖霊を信じます。」と書かれています。そしてイエス様については使徒信条の中でどのようなお方かが詳しく述べられています。ここにイエス様が神の独り子であり、この世界と私たちを支配しておられることが示されています。
このキリスト・イエス様によって私たちは罪を贖っていただき清い者とならせていただけるのです。贖ってくださるお方がおられなければ、私たちはどんなに努力しても罪から救われることはありません。行いによって神の前に正しい者となることはできません。
イエス様のところに来れば誰でも清めていただけます。私たちが聖書を読み、黙想し、祈る時にイエス様は聖霊を通して私たちと共におられます。そして私たちは礼拝に集まって大勢の人々と共に主を賛美します。それは重い病を清めてもらった人がイエス様のもとに戻って、ひれ伏し、神を賛美するのと同じです。私たちはこのようにしてキリストと共に生き、信仰の兄弟姉妹と共に神の国を目ざしてこの世の旅路を進んでいくのです。