聖書 ルカによる福音書18章9~14節
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(14節)
「傲慢と謙遜」
先週の伝道礼拝でもそうでしたが、礼拝の中の牧会祈祷で牧師は礼拝に参加しているすべての人を代表して「この一回りの間に私たちが知りつつも、また知らず知らずのうちに犯してしまいました罪をお赦しください」と祈ります。先ほど私はそのような祈りをささげました。祈りをささげている間にそれぞれの方がこの1週間の間に、しなければいけなかったことや、してはならなかったことを顧みて神さまに赦しを祈ったことだと思います。これは「罪の告白の祈り」です。
使徒パウロはローマの信徒への手紙で「正しい者はいない。一人もいない。」(ロマ3:10)と告げました。パウロが告げるように、私たちは洗礼を受けても、この世にいる間、罪を犯してしまう存在です。イエス様に罪を告白して赦しを乞い願うことで、イエス様は私たちを執り成して下さり、正しい者としてくださいます。罪を犯す存在である私たちが神の前に正しい者としていただき、新たに新しい1週間を歩み始めることができるのはなんと素晴らしいことかと思います。
本日与えられた御言葉はルカによる福音書18章9節から14節です。
9節にイエス様は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に譬えを話された」と書かれています。ファリサイ派の人々がイエス様に論争をしかけていたときでした。二人の人が祈るために神殿に上りました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人(10節)でした。ファリサイ派の人は新約聖書に数多く登場しますので皆さんよくご存じのことだと思います。この人たちは日常生活の細部に至るまで律法と規定を守って生活していました。たとえば、食事の前に手や体を清めたり、皿・鉢・器(うつわ)を洗い清めたり、断食を守り、安息日の労働を一切しない、といった生活をしていました。そしていろいろな事情で律法を守れない人々を汚(けが)れている者と見なしていました。つまり表面的には高潔で非の打ちどころのない人々でした。「表面的には」と言いましたのは心の中では11節のような思いを抱いていたからです。これについてはもう少し先でお話したいと思います。
一方、徴税人というのは税を徴収する仕事をしている人です。当時のユダヤはローマ帝国の属国となっていて、ユダヤの人々はローマ帝国に税金を納めることが義務づけられていました。徴税人はローマ帝国の税金の取り立てを請け負うユダヤ人でした。彼らは少数の人を除いては、本来の税金以上に取りたてて不当に過大な利益を得ていましたから、ローマ帝国の手先であるという理由と不正によって富を築いているという理由で、ユダヤの人々から蔑まれ嫌われていました。
二人の祈りが11節から13節に書かれています。ファリサイ派の人は立って祈りました。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。
一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言いました。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
イエス様はこの二人のうち神に正しい人とされて家に帰ったのは徴税人であって、ファリサイ派の人ではないと言われました。
ファリサイ派の人が祈っていることは実際に彼がおこなっていたことでした。彼は「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではありません」。「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げる人」です。この行いは律法に書かれている通りのことです。この人がそのような行いができない人ではないことを感謝したことのどこがいけないのでしょうか。一方、徴税人はどうして神に正しい人とされたのでしょうか。
イエス様は14節後半にあるように「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイ23:12にも同じ文章)と言われました。「高ぶる者」とは「神の位置に自分を高める者」という意味ですので、ファリサイ派の人は自分を神と同列に置いたことになります。傲慢よりはるかに悪質です。彼はもはや救い主を必要としません。しかしこれは本当ではありません。最初の方で引用した使徒パウロの言葉「正しい者はいない。一人もいない。」(ロマ3:10)は旧約聖書の詩編14編1から3節の言葉なのです。そこには次のように書かれています。
『神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。』
このような言葉です。旧約聖書を良く知っているファリサイ派の人がこの言葉を知らないはずはありません。知っていながらこの神の言葉を軽んじているのです。ここにファリサイ派の人の罪があります。
一方で神に赦しを乞い願った徴税人は「へりくだる者」と言われます。これは「神の前に身を低くする者」という意味です。他の箇所ではイエス様のことに使われています。フィリピの信徒への手紙2章8節の「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」の「へりくだって」という言葉がそうです。
キリスト者である私たちは自分を徴税人の位置に置こうとしがちですが、加藤常昭牧師はその考えに警鐘を鳴らしました。それはどういうことかといいますと、神に罪を告白しながらも、「神さま、私は自分の罪を知り、あなたの憐れみを知るということにおいて、あの人よりはまし、この人よりはましです。」と思ってファリサイ派の人と同じ罪を犯すというのです。「自分は低いところにいる。そして自分よりも高くいると思われる人に、あなたも私と一緒に頭を下げなさいと言っているようなもの」だと言うのです。そのような私たちの心の内を神は見ておられます。
しかし、この譬えの徴税人にはそんな余裕はありません。徴税人は他者をみませんでした。神の前に一人で立っていました。神に見られている自分だけがそこにいます。彼は神の憐れみに支えられるより他に、神と共に生きることはできないことを知っていました。だから彼は胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈ったのです。これは苦難の中からの叫びです。人は神によって解放されなければ生きることができません。生きるとは苦難の中に喜びを見いだすことであり、絶望の中に希望を見いだすことです。それを可能にしてくださるのは神であり、救い主であるイエス様なのです。
さて、ここで私にはひとつの疑問が湧いてきました。イエス様はファリサイ派の人に代表される人と憐れみを乞い願う徴税人に代表される人とを分離しているのか、という疑問です。エフェソの信徒への手紙2章14節、15節には「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊しました」と書かれています。イエス様は譬えの中でファリサイ派の人は「低くされる」と言われましたが、これは悔い改めへと導くことばです。そして徴税人には「高められる」と言われましたが、この譬えのような「へりくだる徴税人」はイエス様お一人しかおられません。人はこの譬えのファリサイ派の人なのです。
だからこそ私たちは礼拝で主を賛美し、御言葉を聞いて高ぶる心を打ち砕かれなければなりません。イエス様に憐れみを乞わなければなりません。そして私たちは生きることができるようにさせていただける恵みを受けるのです。
「羊文学」という3人組の音楽バンドの歌に「人間だった」というのがあります。このような歌詞です。
ぼくたちはかつて人間だったのに いつからか わすれてしまった
ああ いま 飛べないなら 神さまじゃないと思い出してよ
街灯の街並みに 燃える原子炉 どこにいてもつながれる心
デザインされた都市 デザインされる子供
もっと便利にもっと自由に 何を得て 何を失ってきたのだろう
忘れないで 自然は一瞬で全てをぶち壊すよ
ぼくたちはかつて人間だったのに いつからか わすれてしまった
ああ いま 行け 走って行け 風を切る奇跡 思い出してよ 神さまじゃない。
歌詞は私たちが神さまになってしまたかのように振舞っていることを諫め、私たちは限界を持つ人間なんだということを思い出すようにというメッセージが込められているように思います。
人間は罪を犯す存在です。しかしそのことを忘れて神の位置に自分を置こうとします。それも無意識のうちにそのようにしてしまうのです。なぜか。神を忘れているからです。神を見ようとせずに何か別のものに頼ろうとするからです。神を見ることはできませんから目に見えるものに頼ろうとしてしまう誘惑から私たちは自由ではありません。イエス様の譬え話のファリサイ派の人は律法に頼りました。そのことが神の前に正しいと認められることだと信じていました。しかし彼は神の言葉を聞いていませんでした。神の言葉を聞かないで神と共にいることはできません。礼拝で神を賛美し、救い主イエス様の憐れみに支えられて、私たちに与えられている生を生きましょう。共に神の国への旅路を歩んでまいりましょう。