11月2日礼拝説教「キリスト者の栄光」

聖書 エフェソの信徒への手紙1章15~23節、ルカによる福音書6章20~23節

その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。(ルカ6:23)

「キリスト者の栄光」

今日は教会の暦で「聖徒の日」です。礼拝堂の前にはこの教会で信仰生活を送り天に召された私たちの信仰の兄弟姉妹の写真が並べられています。お手元の週報の中に24人の信徒と2人の教職のお名前が記された召天会員名簿が入っています。皆さんにとって一緒に礼拝した人もいれば、そうではない人もいることだと思います。一緒に礼拝したことがなくても同じ信仰を持ってこの教会の礼拝に集った方々は身近に感じます。私は2022年にこちらに参りまして、○○さんと○○さんの葬儀を執り行わせていただきました。

〇〇さんは茅ヶ崎から礼拝に通っておられたと聞きました。遠くからでも親友がいて暖かな教会の交わりに喜んで来られていたことだと思います。〇〇さんは戦中にお生まれになり、引き上げを経験された方でした。キリスト教の信仰を得られてから、お住まいになったところでご主人と教会に通い、千葉に来られてからはこの教会で信仰生活を送られました。教会ではいろいろな奉仕を喜んでなさっていたと伺いました。召天会員の最初に名前がある〇〇さんは障害を持っておられましたがこの教会の初期の頃から礼拝に参加して信仰生活を送られたとお聞きしました。他の方々についてもそれぞれの方の記憶に思い出が刻まれていることだと思います。

 

本日与えられた聖書の御言葉を通して私たち聖徒に与えられた恵みがどれほど大きなものであるかを教えていただきたいと思います。最初にエフェソの信徒への手紙1章15節から23節の御言葉に聞いてまいりましょう。

15節と16節は次のように書かれています。「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」

冒頭の「こういうわけで」というのはその前の3節から14節に書かれていることを指しています。まとめると次の4つになります。1つ、神は秘められた御計画をキリスト者に知らせてくださいました。2つ、キリスト者は神が約束してくださったものの相続者とされました。3つ、このことは聖霊が証印を押してくださったので間違いありません。4つ、私たちは贖われて神のものとなり神の栄光を讃えるようになりました。パウロはこれらのことを通して「信徒たちがイエス様を信じ、すべての聖なる者を愛している」ということを聞いて、エフェソの信徒たちを思い起こし、祈りの度に神に感謝しているのです。

15節に「すべての聖なる者」という言葉が書かれています。これこそ、本日の「聖徒の日」の起源であると申せましょう。「すべての聖なる者を愛している」というこの愛は見返りを求めない無償の愛です。そして先に召された親交の教会姉妹に対しては「いつまでも覚えておく」というように言い換えることができます。生きている者が「いつまでも覚えておく」だけではなく、召された人々もその永遠の命の内に私たちを覚えているという相互の関係があります。

イエス様は「死者の復活」についてたとえばマタイによる福音書22章31、32節で「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と言われました。アブラハムもイサクもヤコブも今は召されて神のもとにいますが、神が彼らの神であると言われるのですから彼らは生きているのです。もちろんこの世界と神の国とは人間にはどうしても越えられないものとして隔てられていますが、神にはその隔てはありません。ヨハネによる福音書3章36節に「御子を信じる人は永遠の命を得ている」と書かれている通りに、召された方々は永遠の命を得ています。今は眠りについていますが、主の再臨の日には霊の体としてよみがえることが約束されています。これこそ神の秘められた御計画です。人間には想像することができないことですが、聖霊が保証してくださっていますから、この約束は確実です。生きている私たちも、すでに召された信仰の兄弟姉妹も、つまりすべての聖徒はこの約束の希望を抱いて生きています。

私たちは死を永遠に滅ぼされた方であるキリスト・イエス様を信じています。このお方がよみがえられたのは私たちのよみがえりの初穂となられるためでした。17節、18節にあるように、御父は私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源です。パウロはその御父が私たちに知恵と啓示との霊を与えて私たちが神ご自身を深く知ることができるように、また私たちの心の目を開いてください、と祈っています。またパウロは「聖徒の受け継ぐものはとても豊かで栄光に満ちている」ことを私たちが悟るようにと祈っています。パウロの祈りはさらに続きます。19節にパウロはキリスト者が次のような恵みを悟ることができるように祈っています。つまり神は遥かに勝った偉大な力であるということ、そして神はキリスト者に強い力をもって働いているということです。

20節と21節には神がその力をキリストに働かせて、この世界と来るべき世界とを統治されることがパウロによって証しされています。パウロはこの箇所で、先に信徒たちの栄光について証しし、その後にキリストの復活と昇天と統治を証ししています。この証しの順序は逆ではないかと思われるかもしれませんが、これはパウロがエフェソの信徒たちのことをとても大切に思っていることを表しているからです。この手紙は今日聞いている私たちにも同じように届けられます。パウロは聖霊に導かれてこの手紙を書きました。従ってこのようにお考えのお方は私たちの主イエス・キリスト、このお方なのです。イエス様は私たちが人間の知恵では計り知れないキリスト者の栄光をパウロを通して私たちにお示しになっているのです。キリストは22節にあるように教会のかしらとしてこの礼拝の場におられます。

 

ルカによる福音書6章20節から23節はイエス様が弟子たちに「幸い」について教えた箇所です。イエス様は「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる」と言われました。この言葉は現実を考えると、素直には受け取ることができないと思われるかもしれません。

これを解く鍵は22節と23節の「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」にあります。

つまりここでの貧しい人、飢えている人、泣いている人は、福音を宣べ伝えることによって人々に憎まれ、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられた人々の姿なのです。

 

私に洗礼を授けてくださった千葉温(あつし)牧師はとても親切で、私の受洗前に妻と私に何かと聖書のお話や若い頃の宣教のお話をしてくださいました。何不自由なく暮らしていると思っていたのですが、とても貧しい暮らしだということを後で知って驚きました。それはどうも戦争前からそのような生活だったようです。貧しさは不幸ではないということを教えられました。千葉牧師に出会ったことが牧師を志すひとつのきっかけになりました。

戦時中のキリスト者や教会は敵性宗教を信じる者たちとして特高警察の監視下に置かれ、人々から冷遇されていたと言います。そのような中で信徒は信仰を守り通しました。もちろん礼拝の中で皇居の方向にお辞儀する宮城遙拝(きゅうじょうようはい)を余儀なくされたりして、信仰の自由が大幅に制限されましたが、それでもイエス様を救い主として唯一の神を礼拝し続けました。その多くの方々は今や天に召されています。この人たちは今や神から幸いであるされ、豊かな栄光に輝いていることでしょう。

 

私たちは日本の中では少数者です。私たちが語る言葉に耳を傾けてくれる人はほんのわずかしかいないように思います。しかしエフェソの信徒への手紙1章18節にあるように「聖なる者たち、すなわちキリスト者たちが受け継ぐものはとても豊かな栄光に輝いています」。パウロは私たちがそのことを悟ることができるように祈ったのです。この祈りは聖書の中で今も私たちキリスト者のために祈られています。