11月9日礼拝説教「復活の希望」

聖書 テサロニケの信徒への手紙二・2章13~17節、ルカによる福音書20章27~38節

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ20:38)

「復活の希望」

ルカによる福音書20章27節に「復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」と書かれています。サドカイ派がどのような教えを守っていたのかといいますと、モーセ五書と言われる旧約聖書の最初の5つの文書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のみを拘束力のある教えとしていた人たちでした。一方で福音書にたびたび登場するファリサイ派は旧約聖書全般を重要視し、言い伝えも大切にしていた人たちでした。この違いから、サドカイ派は死者の復活を否定しており、ファリサイ派は死者の復活を肯定していました。これは今日の一般の人々が考える「死者の復活などばかげている」という考えとは違って、旧約聖書に基づく神学論争でした。

ルカによる福音書20章28節から33節に書かれている問いはサドカイ派がファリサイ派と論争する時に使った譬えだと言われています。これは理解するのに難しくはありません。その箇所をお読みします。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

誰もが感じるのは、このサドカイ派の問いは議論のための議論に過ぎないということです。この問いを発する人たちは夫を亡くした女性の悲しみに対する同情のかけらもありません。女性をまるで子を産む機械のように見ています。男性たちの思いもまったく顧みられません。このような想定をすることがどれだけ非人間的なことであるかということにサドカイ派の人々は気づいていません。

さて、この問いに対して復活を信じるファリサイ派の人々は次のように答えていたと考えられています。『何といっても優先権があるのは最初の夫である。最初の夫に神の国でもこの女と暮らすのかと聞き、そうすると言ったら問題はそれで解決する。第一の夫がそうしないと答えたら、二番目の夫に同じように聞けばよい。』この答えは想定の議論には想定で返すというものです。

しかしイエス様はサドカイ派の問いに答えて退屈な議論をすることはなさいませんでした。そこではっきりと示されたのです。38節をご覧ください。イエス様は「すべての人は神によって生きている」と明言されました。

神によって生きている、だからこそ、人は生きることができるのです。復活があるかないかの議論ではなく、生きているときも死んだ後も人は神によって生きると言われるのです。この言葉に復活の希望があります。

35節に「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」とあります。これは原典を直訳すると「次の世に死者の中からの復活に与るのにふさわしいと認められた人々」ということであり、復活させてくださるのは父なる神であり、その父が「ふさわしいと認めた人びと」が復活することが示されています。これは不公平だ、不平等だという声があるかもしれませんが、復活を信じていない人にとってイエス様の言葉は意味を持たないのですから、やはり復活は「死者の中からの復活に与るのにふさわしいと認められた人々」に与えられるものです。この人々はどういう人かということについて私たちにはテサロニケの信徒への手紙二の2章13~17節が与えられました。後で一緒に読みたいと思います。

次に36節には『この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』とイエス様の言葉が記されています。「復活にあずかる者として、神の子だからである」は新しい訳である聖書協会共同訳では『復活の子として神の子だからである。』と書かれています。こちらの方が原典に近い訳です。つまり35節の「次の世に死者の中からの復活に与るのにふさわしいと認められた人々」は「復活の子として神の子」なのです。この「復活の子」はまた「天使に等しい者」であるとイエス様は言われます。これは天使のようにもはや死なない命が与えられ、神に仕えるということを意味しています。この世で私たちが教会に集まり主を讃えて礼拝して神に仕えていることが、喜びだけでなく、この世の荒波に耐えながらのものであるのに対して、神の国での礼拝は喜びに満ちているということを表しています。

37節と38節をお読みします。『死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである』。すべての人と言われるのですから神によらずに生きている人はいません。ただそのことを知らない人たちがいるのです。その人たちが「次の世に死者の中からの復活に与るのにふさわしいと認められた人々」とならないように、神を信じて復活の希望をもってこの不条理に満ちた世を生きて欲しいと願います。

 

さて、私たちには今日、テサロニケの信徒への手紙二の2章13~17節も与えられました。13節に「あなたがたを聖なる者とする“霊”(聖霊)の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになった」と書かれています。ここに「救われるべき者」という言葉があります。これは先ほどのルカによる福音書に書かれていた「次の世に死者の中からの復活に与るのにふさわしいと認められた人々」と同じ人々です。そして「初穂」という言葉があります。これは旧約聖書との関連で言うと神への献げ物という意味があります。初物の献げ物は、「それがささげられることによって民全体が聖くなる」というものです。「次の世に死者の中からの復活に与るのにふさわしいと認められた人々」が存在し、その人々が神を礼拝することによって民全体が聖くなる。それが私たちの礼拝であります。私たちは個人の救いを求めて礼拝に集まりますが、それに留まらずこの地域や世界の平安を祈ります。個人の平安は地域や世界の平安なしにはあり得ません。

15節に『ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。』とパウロは命じています。「兄弟たち」は当時の意味合いでは「兄弟姉妹たち」ですからパウロはすべてのキリスト者に命じています。「しっかり立って」は「福音に堅く立ちなさい。福音から離れてはいけません。」という警告の意味合いが含まれています。その福音とはパウロ達が説教や手紙で伝えた教えです。今日でも礼拝で聖書が読まれ、説教が語られます。2000年前と今日と同じことが行われています。聖霊が私たちを導いて福音から離れないようにしてくださっています。しかし世の快楽に目が向き、あるいは欲望のとりこになってしまうと福音から離れてしまい、自ら滅びの道を歩くことになってしまいます。そうなると復活の希望は潰(つい)え去ってしまうでしょう。

パウロはテサロニケの信徒たちがそうならないように執り成しの祈りを祈っています。16節、17節です。『わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。』

私たちは自分だけで福音に堅く立とうとするのではなく、祈り合って共に福音に堅く立つならば、そのことは喜びとなります。

 

神は生きている者の神です。そして人は神によって生きています。もし自分自身で生きていると信じるならば死は終わりです。神の国に生きることはできませんし、復活の希望を抱いてこの世を生きることもかないません。「すべての人は神によって生きている」ことを心に留めて日々を喜びのうちに、復活の希望を持って歩みたいと思います。