聖書 イザヤ書65章17~20節、ルカによる福音書20章7~19節
イエスは彼らを見つめて言われた。
「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。』(ルカ20:17)
「キリストは命の土台」
現代の人々は自由がとても大切だと考えていると思います。この「自由」という言葉は古代日本や中国では我儘放蕩(わがままほうとう)という悪い意味だったそうです。たとえば徒然草第60段に『世をかろく思ひたる曲者にて、よろづ自由にして、大方、人に従ふといふことなし。』という文章があります。誰にも邪魔されずに生きたいと思っている人はこのような悪い意味の自由を求めているでしょう。ルカによる福音書20章9~19節に出てくるぶどう園の農夫たちはこの悪い意味の自由に生きた人たちと思われます。
イエス様は神殿の境内で「ぶどう園と農夫」のたとえを話始められました。9節後半から10節前半に『ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。』という言葉が記されています。
主人はブドウ園を農夫たちに完全に任せて、長い旅に出ました。当時は実際にそのようにした人がいたようで、もしその主人が旅先で死んだり、何らかの事情で帰ってこれなくなったりするとその農園は農夫たちのものになったのだそうです。ここで大切なことは、主人は農夫たちに完全に任せてしまっているということです。ぶどう園の管理を完全に農夫たちに委ねています。その間、農夫たちは一所懸命に働いたと思われます。指図を受けずに自由に働くことができた農夫たちは、自分たちの仕事ぶりに満足し、主人がいないのをいいことに収穫物を自分たちのものにしようとしました。
ところが収穫の時になると主人のしもべが農夫たちのところに来てぶどうの収穫物を納めさせようとしました。「全部の収穫物」とは書かれていませんから、しもべは主人の取り分を取りに行ったということが分かります。ところが10節後半に書かれているように、農夫たちはこの僕に暴力を振るい、何も持たせないで追い返しました。
ぶどう園の主人は11節、12節にあるように、他のしもべを送ったのですが、そのしもべも同じような目に遭わされて侮辱され追い返されてしまいました3人目のしもべは体に傷を負わせられて追い返されてしまいました。農夫たちはぶどう園を貸してくれた主人に対する感謝がなく、主人が当然受け取ることができる収穫物も渡そうとしません。農夫たちは我儘放蕩(わがままほうとう)という悪い意味での「自由」を自分たちのものにしていたのです。農夫たちは「働いて苦労したのは自分たちだ。土地が荒れ放題にならないのは我々が土地を耕し、ぶどうの世話をしているからだ。主人は何もしていない。この土地を管理してやっている我々に感謝すべきだ。収穫物の分け前にあずかろうなどとは虫が良すぎる」と考えたのでしょう。しかしこの考えは最初に主人からぶどう園の管理を任されたということが忘れられています。自分勝手なのです。
3人目のしもべも追い返されてきたので、ぶどう園の主人は考えました。13節です。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』こうして主人は愛する跡取り息子を自分の代理人としてぶどう園に送りました。農夫たちは息子を見ると『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』と恐ろしいことを考え、息子を殺してしまいました。
農夫たちにとって、主人との関係は非常に薄いものになっていました。跡取りを殺せばぶどう園は自分たちのものになると思ってしまったのでしょう。しかし主人は健在ですからそのようなことはあり得ません。
イエス様はこの譬えを話された後で民衆に質問しました。『さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。』と。人々は農夫に何らかの裁きが下るだろうと思ったでしょう。それは当然のことです。
そしてイエス様は『戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。』と言われました。人々はあまりにも厳しい裁きと考えたかもしれません。しかしイエス様のたとえは厳しいのです。ちょうど人々がぬるま湯に浸かってまどろんでいるときに冷水をあびせかけ覚醒させるような厳しさがあります。
16節後半に『彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。』と書かれています。「彼ら」とは旧約聖書を良く学んでいる律法学者たちでしょう。彼らの知識によれば神に祝福されているユダヤ人がこのような裁きを受けることはあってはならないことでした。
この言葉に対してイエス様は17,18節に記されているように、『「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」』と問いを発しました。
イエス様が引用した言葉は詩編118編22節です。詩編118編は感謝して神を讃える詩です。この22節から25節をお読みします。
118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
このような詩です。24節に「今日こそ主の御業の日」という言葉があります。これが裁きの日を表しています。イエス様は詩編118編を引用して、神の民に対する忍耐の時期は過ぎ去ったこと、そして新しい民が呼び出されるということをお示しになったのです。
そしてイエス様は、農夫たちの命は殺された主人の跡取り息子にかかっていることを教えました。この跡取り息子は主人の代理人として農夫たちの前に現れました。彼らは跡取り息子を殺しましたが、そのような行動に出た自分勝手な自由を悔い改めて主人のことを思い、再び主人に仕えるならば赦されて命をえるだろうと、イエス様は暗示しておられます。
そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエス様が自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエス様に手を出そうとしましたが、民衆を恐れて手を出すことはできませんでした(19節)。この人たちは、せっかくイエス様が救いの道を示してくださったのに、そのことに気づかずにイエス様を捕えて殺そうとしました。
このたとえは人間が自分の所有物を自分のものと思い込んでいるけれども、実はすべて神さまのものであること、そして人間が悪い意味での自由を求めてしまうことに気づかせてくれます。
イザヤ書65章17節に『見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。』という預言が書かれています。『そこにはもはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる』と謂われます。新しい天と新しい地に住む人はすべて命を得るからです。つまり「家を建てる者が捨てた石」であるイエス様を信じる人々は永遠の命を得ることが暗示されています。
英語には自由という意味の言葉が2つあります。すべてのものからの自由を意味するフリーダム(freedom)と束縛や抑圧から解放される自由を意味するリバティ(liberty)です。イエス様のたとえに出てきた農夫はフリーダムの自由を得ていると思い込んでいました。古代日本や古代中国の我儘放蕩(わがままほうとう)という自由です。他人に迷惑をかけようとお構いなしの自由です。その自由はちょうど糸が切れた凧が風に流されるような、その場その場での判断で日々を送るような拠り所のない自由です。
一方でリバティは、その語源を辿るとギリシア語に遡り、奴隷からの解放を意味しています。聖書が明かすところでは、主なる神は人間を造り祝福してくださり、いつまでも人間を導き、出エジプトの出来事やバビロン捕囚からの解放の出来事に現されるように束縛されていた神の民を導いてくださいますから、主につながることで束縛から解放してもらえるのです。主につながることで、凧が風にあおられても自分のいるべきところにいることができるような自由です。
イエス様はフリーダムの自由を行使していた農夫が主人の跡取りを殺しても、その跡取りを信じることで命を得させてくださるということを説いています。これはご自身の十字架の死を通して人々が悔い改めることができる命の道を開いてくださったということです。
イエス様は『人間が〔我がまま〕で主なる神の独り子を殺したとしても、その独り子によって命を得ることができる。新しい天と地に住むために神の独り子が命の土台であることを信じなさい。そうでなければ自ら裁きを受けるようになってしまう。独り子を与え〔束縛から解放〕してくださる神を神を重んじなさい』と諭しておられます。私たちに命の土台である神の独り子イエス様が与えられたことを感謝します。