11月23日礼拝説教「正義と恵みのキリスト」

聖書 エレミヤ書23章1~6節、コロサイの信徒への手紙1章15~20節

「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。(エレミヤ書23:1-2)

「正義と恵みのキリスト」

昨日は西千葉教会で『どうして戦争しちゃいけないの?』と題する講演会がありました。講師のダニー・ネフセタイさんは1957年にイスラエルで生まれた人で、現在は埼玉県に住んで家具を作る職人として働きながら、戦争をしないことについて日本各地で講演しています。参加者は海外で10台を過ごし軍隊にもいたダニーさんの目に映る日本を通して、日本を見直す機会が与えられました。ダニーさんは18歳で徴兵制のためイスラエル空軍に入隊し3年間兵役に就いた後、日本に来て46年になります。日本に来て驚いたことは、20歳くらいの若者が沢山いるということ、イスラエルでは男女とも兵役に就いているので普通の格好をしている大学生くらいの年齢の若者がいないそうです。また日本には街中に銃を持った兵がいないこと、イスラエルでは銃を持った兵が日常の中にいるそうです。日本は憲法9条に守られている国だと言っていました。いろいろな見方がありますが憲法9条を平和を守る者として積極的に捉えているのは外国人の方かもしれません。

ダニーさんはイスラエルの現状について次のように説明しました。

『現在、イスラエルには700万人のユダヤ人と700万人のパレスチナ人が住んでいます。これだけの人がいればどちらかが無くなることも、どこかへ行ってしまうこともありません。2つの民族はこれから好きであれ嫌いであれ、この土地を分けなければならないのです。だからイスラエルとパレスチナの問題を解決したければ、誰が先にここに住んでいたかではなく、どちらが多くの犠牲者を出したかでもなく、今からどうするかだと思います。これはいろんな戦争について言えると思います。戦争で過ちを犯したことはちゃんと認めて謝罪しなければいけない。でも将来に向けてしなければいけないのは今日からどうするかということです。今のユダヤ人とパレスチナ人の選択肢は2つ、「共に生きる」か「共に死ぬ」かです。日本とアジアの80年前と同じ立場。その当時、日本はアジアと共に死ぬことを選んだんです。このことの過ちに気づいて素晴らしい憲法9条を立ち上げて、その憲法9条によって80年間、日本では戦争がありません。イスラエルとパレスチナはまだこの気づきに至りません。』

どうでしょうか皆さん。イスラエル出身のダニエルさんには、国会で議論されていることとまったく違う日本のかたちが見えています。憲法9条では国は守れない、実質はアメリカの傘によって守られているという主張がありますが、世界一の軍隊の国と自負しているイスラエルから来たダニーさんは憲法9条が実質的に平和を保つ力であることを見抜いています。

しかしなぜ迎撃ミサイルを配備し、イージス艦を配備し、敵基地攻撃能力を持つなどの軍備を拡大しなければ国は守れないという世論が大きくなってきているのか。これについてダニーさんは「人々があおられている」ということを教えてくれました。『たとえば北朝鮮からミサイルが発射されると、テレビやラジオは特別番組になり、そこに軍事評論家が呼ばれて解説をします。彼らは軍事の専門家だけどそれ以外のことはわからないから、防衛を強化するような軍備が必要だとコメントします。外交的に解決できることを教えません。これが「あおり」です。政治家が北朝鮮に行って、「これは困る」と言えるようにすることが大切です。』このようにダニーさんは言います。

私たちは政治家でも外交官でもありませんから「あおり」をどのように冷静に判断できるか、私たちに何ができるかについてもダニーさんは教えてくれました。『北朝鮮からミサイルが発射されて、「あの国はひどい」という子どもたちに、大人が「ミサイルを飛ばしたのは一人、大勢の人がミサイルを飛ばしたら大変なことになるけどそんなことはない」と教えてあげることで「気づき」を与えてあげることができる。大切なのは目で見て感情で動かされるのではなく「心を使う」ことです。「心を使う」とは子どもが殺されるのは何があってもいけないということを絶対とすることです。「場合によっては子どもが殺されても仕方がない」はありません。自分の子と思えば仕方がないはないでしょう。』このように教えてくれました。

 

本日与えられたイザヤ書には裁きと救いが預言されています。23章1節に主なる神は『災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と言われたことが記されています。「わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」とはこの当時でいえば、古代ユダ王国で自分たちの利益や保身のために主の道を外れた政治を行い、国を滅亡に導いた政治家や官僚のことを指しています。その人々の政治により国は滅び、民は散らされてしまいます。「その者たちは主の民を散らし、追い払い、顧みることをしなかった。それで主は彼らの悪い行いを罰する」と主は断罪されます。このイザヤが語る主の言葉を軽んじたためにユダ王国は滅亡してしまい、ある者は殺され、ある者は捕囚として連れ去られました。そして民は散らされてしまいました。

神の裁きの言葉を軽んじてはなりません。私たちに「気づき」の言葉は与えられています。恐怖の言葉にあおられてはなりません。イスラエルとパレスチナが生きていくか死ぬかの道しかないように、日本も近隣諸国と共に生きるか、共に死ぬかの道しかないことを理解しなければなりません。この場所に日本だけがあるのではなく近隣諸国と共に日本があるという当然のことを忘れてはいけません。

ダニーさんは『戦争は宗教や民族が原因だという人がいるけれども、小さい頃から一緒に遊んでいれば宗教や民族がどうあろうと仲良くできる。実際に幼稚園や保育園ではそうだ』と言っていました。そこに住んでいる人々を知らずに報道などに「あおられる」から話し合いの努力を軽んじるのではないでしょうか。私たちの間でも争いごとが起きます。しかしそこで暴力を振るえば問題は解決するどころかさらに関係が悪化します。私たちは悪意や猜疑心による「あおり」に振り回されるのではなく、毎週の礼拝やそれぞれの生活の中で聖書を読み祈ることによって、福音の言葉に耳を傾けています。そのような生活においてはじめて私たちは「あおり」の言葉から自由にされるのです。そしてお互いの良いところも悪いところも知り、つまり相手を自分とは違う存在として認めることで、互いに良い関係となれます。

 

主なる神は福音の言葉を聞いて従う人々を集めてくださいます。エレミヤ書23章3節から6節は救いの言葉です。この4つの節ははっきりと救いを語っています。主は「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と言われます。「群れの残った羊」は「福音の言葉を聞いて従う人々」です。その人々は必ずしもこの世的な栄華を楽しんでいるわけではありませんが、主に従うことで自由にされた喜びをもって人生を歩いています。主はその人々を集めてくださいます。

この教会も主の名によって集まった人々の群れです。主が私たちを集めてくださいました。習慣的に礼拝に通っていることも、その行動は主がもたらしてくださっています。もし今日初めて参加した人がいれば、その方はやはりこの場所に呼ばれたのです。

4節「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。」という言葉があります。これこそ救い主がこの世に現れることの預言です。

そして5節、6節には『見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。』と書かれています。「このような日」とは救い主が現れる日であり、現代の私たちにとっては救い主が再び来られる日です。エレミヤの時代の人々は救い主を待ち望み、その希望に生き、その希望を抱いて天に召されました。現代の私たちはすでに来られた救い主イエス様の救いの業を信じ、再び来られて神の国を完成してくださることの希望に生きることです。

 

この救い主イエス・キリストがどのようなお方であるかについてコロサイの信徒への手紙1章15節から20節はつぎのように証ししています。イエス様は見えない神の姿です。神を見ることはできませんが神から生まれたイエス様は見ることができました。そのお方は人間の姿をしてこの世界に現れました。

15節『すべてのものが造られる前に生まれた方』とあります。キリストは世界が造られる前に生まれたというのは「造られたのではなく神と同質である存在として生まれた方」ということを証ししています。神と同質というのですからキリストは神そのものです。そして神と共に世界を創造されました。

16節から18節はキリストがこの世界、宇宙全体を支配し治めておられることを証ししています。キリストの支配から逃れられる存在は何もありません。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせました(19節)。キリストは神と同質であることがこの言葉からも分かります。

キリストは十字架の血によって平和を打ち立てられました。この平和とは第一にキリストの犠牲によって神が人間と和解してくださったことによる平和であり、第二に神との平和に基づく人間同士の平和です。

『神は敵を造ってはいません。人間を造りました。』とダニーさんは言いました。敵は存在しません。私たちの頭にイメージが作られるだけです。「敵はいない」ということに気づくことが大切です。都心の公園には生まれも、人種も、宗教も違う人々がいて平和です。誰も戦おうとはしていません。

ダニーさんによれば戦争をしているのは世界のわずか2%の人だそうです。それなのにその人たちのために人が殺され、建物が破壊され、環境が壊されています。残りの98%の人々が平和のために集まれば戦争はなくなります。すでに救い主は来てくださいました。このお方は世界と宇宙を治めておられます。聖書はこのことに「気づき」を与えています。キリストの支配は争いではなくまことの平和です。