11月30日礼拝説教「救いは近い」

聖書 イザヤ書2章1~5節、ローマの信徒への手紙13章11~14節

あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。(ローマ13:11)

「救いは近い」

本日から主のご降誕を待つアドベントの期間に入りました。そしてまた教会暦では新しい年が始まりました。この1年も主を礼拝し、主と共に歩む神の共同体として過ごしていきたいと思います。本日はマタイによる福音書24章36節から44節に記されているイエス様の終末預言に関連する言葉としてイザヤ書とローマの信徒への手紙に聞いてい参りたいと思います。

アドベントと言う言葉は「到来」を意味するラテン語から来たもので「キリストの到来」のことです。キリストとは「救い主イエス様」のことですから「アドベント」は「救い主イエス様が来られること」という意味です。あと4週間と少しで12月24日のクリスマス、イエス様の誕生をお祝いするクリスマスを迎えます。この日までの期間がアドベントです。

そしてアドベントにはもう一つの意味があります。それはイエス様が再び来てくださるということです。本日はアドベントの最初の礼拝として、今生きている私たちが待つ「イエス様が再び来て下さる日」について思いを寄せたいと思います。

皆さんは「終末」、あるいは「終わりの日」という言葉を聞いたことがあると思います。イエス様が再び来てくださる日がそれなのです。SF映画などでは世界が破滅する恐怖の日として表現されていますが、旧約聖書に書かれている「終わりの日」やイエス様が語られた「その日」というのは、裁きによる救いの日なのです。

 

イザヤ書2章1~5節はその日がどのようなものかを預言者イザヤが見た幻によって語っています。預言者イザヤにとって、終わりの日がいつ来るかということは問題ではなく、その日がどの様なものかということと終わりの日が来ることは確実なのだということが問題でした。そしてその日に対する人間の生き方が問題でした。終わりの日は確実に到来するのですから私たちはそれに備えなければなりません。マタイによる福音書24章37節に「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」というイエス様の言葉がある通りイエス様は再び来られます。

イザヤ書2章2節にはこの地上に主なる神の神殿が現れ、すべての国の民はそこに向かうことが記されています。そして3節には主の山に多くの国民が行って、「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と言うと書かれています。終わりの日には主なる神自らが私たちに道を示して下さるのです。私たちはその時にはもはや迷うことはなくなります。

4節には終末の平和が示されています。『主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。』

この平和は主なる神ご自身の裁きによって保障されています。この平和は核抑止力や大国のエゴの押し付けによってようやく何とか保たれているものではなく、主の教えが人々の心に自発的に受け取られる結果現れる平和です。戦争は起こらないだけではなく、誰も「もはや戦うことを学ばない」のです。これが終わりの日に実現する平和です。

 

ローマの信徒への手紙13章11節に使徒パウロは『あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。』と書いています。救いは既にこの世界に来ました。それが人となられた神、イエス様のご降誕です。クリスマスはそのことを記念し祝う日です。しかしいまだこの世界は完全な救いに達してはいません。私たち人間もそうであり、いまだに罪の誘惑から逃れられません。しかしパウロは「救いは近づいている」と宣言します。この言葉はイザヤの見た幻に拠っていることは間違いありません。それ以上にパウロは復活のイエス様に出会っているのですから、パウロの言葉に間違いはありません。終わりの日は確実に来るのです。

パウロの時代から2000年も経ったのにまだ救いは完成していない、いや当時よりも悲惨な状態になっていると反論する人がいるでしょう。その人たちは人間の時間で2000年という長さを測っています。確かに途方もない時間ですが、だから終わりの日は来ないということではなく「近づいている」のです。そしてその時は突然訪れます。その時になって慌てても遅いのです。

だからパウロは勧告します。『夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。』と。

夜は更けて一寸先も見えないほどの暗闇の時にすでに夜明けは近づいています。私たちは『光の武具』を身につけようではありませんか。イザヤ書2章5節には『主の光の中を歩もう。』というイザヤの勧告の言葉が記されています。「光」とは「イエス様」であり「武具」とは「言葉」です。

難しいことをしなければならないのではありません。『わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。』(エフェソ6:12)。だから機関銃も核爆弾も役には立ちません。唯一の武具はイエス様と言葉・教えしかありません。悪の諸霊にはこれが一番効くのです。私たちは御言葉によって強く雄々しく闘うことができます。

 

牧師館にはクリスチャン画家の渡辺総一氏が描いた絵が飾られています。この絵はイザヤ2:4をモチーフにしたものです。もう一度、お読みします。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。

その絵は右側に槍や剣のようなものが赤を基調とした暗い色調で描かれていて、左側には2本の鋤と2本の鎌が緑を基調とした明るい色調で描かれています。そして中央には左手で武器の材料を握って金床に置き、右手でハンマーを振う人らしきお方の姿が描かれています。この人はとても存在感があって休むことなしに働いているように見えます。

先週の礼拝で戦争をしている人は世界中のわずか2%の人だというお話をしました。私たちはその人たちを止めることができないもどかしさを感じるのですが、聖書の言葉を聞けば、主なる神は現状を良しとしてはおられず、平和のために働かれておられることを知ることができます。

人もまた平和のために働いています。戦中・戦後を生きた辻哲子牧師はその一人です。先生の講演録からお話いたします。辻先生が敗戦の後、意気消沈しているときに牧師である両親から聞いた言葉はこのようなものでした。

父の言葉。『天地は過ぎゆかん、されどわが言葉は過ぎ逝くことなし。』(マルコ13:31)。新共同訳の『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。』です。母の言葉。『明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり』(マタイ6:34)。新共同訳の『明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。』です。

そして日本国憲法に希望を見いだしました。特に憲法9条の精神の根底に『平和を実現する人は幸いである』、『あなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい』、『敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい』というのがあると気づき、主イエス・キリストの教えと重なったと述べています。

辻牧師は『当たり前のように平和が存在しているのではありません。平和の土壌づくりが必要なのです。その土壌づくりとは、まずイエス・キリストからです』と言われます。私には辻先生が大きな声で叫んでいるのが感じられます。

現代は身体や精神にハンディキャップがある人々が街中に普通に見られるようになりました。私の記憶では50年前はこのようなことは少なかったように思います。弱者にやさしい社会はだれでもが暮らしやすい社会です。戦争をしないだけが平和ではなく、人々の心が弱い人に向けられ、自分もそうなったときに助けてもらえる社会こそが平和な社会ではないかと思います。そのような社会にはイエス様の言葉が生きています。

 

救いは近づいています。救いはある地域では後退しているように見えても、イエス様はお働きになっておられます。そして終わりの日が来るのです。それはキリスト者にとっては待ち望んだ日の到来です。終わりの日を待ち望みつつ、来るクリスマスを待ち望みたいと思います。