聖書 イザヤ書11章6~10節、マタイによる福音書3章1~12節
わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。(イザヤ11:9)
「主なる神の道」
先週の礼拝やミニコンサートには久しぶりの人や初めての人が参加してくださいました。ミニコンサートには教会員以外の方が19人も来場してくださり、礼拝堂が一杯になりました。自分たちの手作りのコンサートであっても多くの方に来ていただき楽しい平安な時を過ごすことができました。コンサートの後にあちこちで楽しそうな会話が交わされていました。主なる神さまが私たちの口コミやチラシ配布やクリスマスを迎える準備などの労苦に報いてくださいました。
これは先ほど私たちが聞いたイザヤ書11章9節の「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」という、預言者イザヤが告げた「終わりの日」の幻がぼんやりと見えた時だったのではないかと私は思います。
先ほど私たちが聞いたマタイによる福音書3章1節から12節には「終わりの日の始まり」のことが記されています。「終わりの日の始まり」とは神がご自分の造られたこの世界に突入して来られた日で、それはイエス様のご降誕、つまりクリスマスのことです。終わりの日は天に上られた復活のイエス様、キリストが再び来てくださる時に完成します。ヨハネの黙示録はその日の幻を「新しい天と新しい地」(黙21:1)と記しています。そしてキリストが再臨される「終わりの日」の幻がイザヤ書11章6節から10節に記されています。それは主の平安の世界の幻です。
まずは「終わりの日」の幻についてイザヤ書に聞いてまいりましょう。11章6節から8節には『狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。』と記され、「終わりの日」の新しい天と地における主の平和の世界が示されています。これはイザヤを通して与えられた終わりの日の幻です。
9節に『わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。』と記されています。新しい天と地には主なる神が共におられます。そこでは何ものも害を加えませんし、何ものも滅ぼしません。大地は主を知る知識で満たされる。これが終わりの日の幻である。そこに住む人は何ものにも危害を加えられることはなく、自分が自分でありのままにいられるのです。これこそ主の平和、主の平安です。
そこに至る「主の道」はすでに備えられています。マタイによる福音書3章に記されているバプテスマ(洗礼者)ヨハネは救い主イエス・キリストが公けの場に現れる前にその道を説きました(マタイ3:1~12)。人は高価な献げ物を捧げたり高額の献金をすることで救われて平安を得るのではありません。もしそうであればお金がない人は救われないことになります。最近では無理して高額の献金をささげたことが原因で重大事件が起きてしまいました。
ヨハネの宣教の言葉は「悔い改めよ」というものでした。誰でも悔い改めることによって救われることをヨハネは説いたのです。「悔い改め」は日本語では「悪いことをしてしまったことを後悔して改める」というニュアンスがありますが、ヨハネが告げているものは「人生の向きを変える」こと、つまり自分中心の生き方を神さまの方向に向かう生き方に変えることであり、悔いるという意味はありません。しかし人が向きを変える動機は、それまでの生き方が間違っていたと悟ることですから、そのことを「悔い」という日本語で表現したのだろうと思います。大事なことは、自分中心の生き方をやめるということです。傲慢になるのも、卑屈になるのも、絶望するのも、自分中心の生き方によって起きるのです。
私は思うのですが、人の奥底にある究極の願いは平安です。平安とはイザヤ書11章9節に書かれている『何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。』という世界です。それは、誰にも危害を加えられることなく、自分は自分でいられる平安です。この世が主を知る知識で満たされれば、他者と比較する必要はなくなり、自分の人生を自分で選び取っていくことができるようになります。それはちょうど、マタイによる福音書13章44節から46節に書かれているイエス様の言葉のように、どんな宝より価値があるものです。その箇所をお読みします。イエス様は次のように言われました。少し長いですがお聞きください。
『天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
このような言葉です。『天の国』とは「終わりの日」に現れる新しい天と新しい地のことであり、それはイエス様のご降誕によってすでにこの世に現れました。それは、しかし、『ここにある』『あそこにある』と言えるものではありません(ルカ17:21)。時間的にも空間的にも固定されてはいません。実に、神の国は私たちの間にあります(ルカ17:21)。
何ものも害を及ぼさず、害を受けない。自分の人生を自分自身の決断において切り拓くことが可能な世界。それが「終わりの日」の幻であり、すでにその日は始まっています。バプテスマのヨハネはこのことを『天の国は近づいた』と宣教しました。この「近づいた」は「すでにすぐそこまで来ている」ということを表しています。
バプテスマのヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々がバプテスマを受けに来ると『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。』と言って厳しい言葉で叱責しました(マタイ3:7~9)。彼らは水でバプテスマを受ければ救われると考えて悔い改めることをしなかったからだと思われます。悔い改めることなしに聖霊が降ることはありません。
10節に『斧は既に木の根元に置かれている。』と書かれている通り、神の審判の時は近いのです。10節から12節に書かれているようにヨハネは厳しい呪いの言葉を彼らに告げます。悔い改めて神と共に歩む人生において人は初めて良い実を結びます。実ではなく殻は分けられて消えることのない火で焼き払われてしまいます。このような恐ろしいことにならないようにと、ヨハネは警告しています。
先週のアドベント第一主日礼拝もアドベントミニコンサートも平安のうちにありました。そして今日のこの礼拝も平安のうちにあります。すでに「天の国」つまり「神の国」はここにおぼろげながら姿を現しているといっても過言ではありません。
昨日はテレビのドキュメント番組で中村哲さんのことが紹介されていました。彼の人生は自分で選び取ったものとはいえ過酷なものでした。日本で医師の仕事をすれば楽に暮らせたでしょうが、彼は若い時に派遣されたアフガニスタンとパキスタンの国境付近で医者がいなくて大変な人々を見たことによって彼らのために尽くす人生を選び取りました。証言によると中村さんはベッドで寝ていなくて机で仕事をしながら寝入っていたそうです。それでも私は中村さんが平安のうちにいたということを確信するのです。なぜそう確信できるのかと言えば、彼の生前の言葉にあります。彼はアフガニスタンで生きることを決心していました。そして大きなことを為すのではなく人のために生きることを語っていました。彼の決意を支える人たちがいましたし、今も中村さんの活動を引き継いでいます。平安とは楽な人生という意味ではありません。主と共に生きて、何ものも害さず、何ものからも害されず、自分の人生を誰からも命令されず、自分の決断によって切り拓くことによって得られるものではないかと思います。それがイザヤ書11章に示されている幻でありましょう。
終わりの日はキリストが再び来られて必ず完成します。私たちはそれを信じて主なる神の道を歩み続けたいと思います。誰も漏れることなく神の国に向かって平安のうちに歩み、神の国へと入っていきましょう。