聖書 イザヤ書35章1~10節、マタイによる福音書11章2~11節
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。(イザヤ35:8)
「救いの道を備える」
世界や日本は混沌とし闇が深まっているように思えます。ニュースは不安をあおるものばかりです。日本では近隣国との間に政治的な緊張が高まっているように思われます。東北での地震のニュースに東日本大震災の記憶がよみがえります。そしてまた、それぞれの人が課題を抱えつつ日々を暮らしていることだと思います。
2000年ほど前のユダヤとその周辺国では救い主が現れるという期待が広がっていました。そしてそのお方は誰なのか知りたいという願いがありました。聖書には東の国の占星術の博士が星のしるしをたよりに救い主を捜し、ベツレヘムで出会ったという出来事が記されています(マタイ2章)。
日本に住んでいる現代の人々も救い主がおられるならばそのお方を知りたいと願うかもしれません。しかし多くの人はそのようなお方はいないと諦めているか、あるいはそのようなお方に頼ることは弱い人間であり自分はそうではないと頑張っているのではないかと思います。誰にも頼ることなく自己責任で何とかしなければならないと思い込まされているのです。しかし自分の力だけで解決できる問題は多くはありません。
本日与えられたマタイによる福音書11章の箇所には、バプテスマ(洗礼者)ヨハネが捕らえられて牢にいる時に、イエス様がなさったことを聞いて、弟子たちをイエス様のところに派遣して尋ねさせた出来事が記されています。
ヨハネは当時の領主ヘロデが自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを自分の妻とした罪を正面切ってヘロデに問いただして捕らえられ牢に入れられました。これは14章1節以下に記されています。
ヨハネの弟子たちはイエス様のところに行って尋ねました。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』(3節)。
この「来るべき方」とは救い主のことです。この問いに対してイエス様は『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。』と答え、続いて『目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』(5節)とその場の状況をお話されました。それはヨハネの弟子たちの目の前に現れている光景でした。
これはいわゆる奇跡が起きている光景です。しかしここには人々が驚いている様子は記されていません。平和なのです。人々は平安のうちにいます。もはやここではひとつひとつの奇跡に驚く者はいません。それが当たり前の光景であることが読み取れます。
先ほどはイザヤ書35章1節から10節も読まれました。そこに書かれていることはイザヤが神さまから預かって人々に語った言葉が記されています。これは「終わりの日」の新しい天と新しい地の幻です。全部をもう一度お読みしたいくらい大切な言葉ですが、その中から4節以下の言葉を取り上げたいと思います。
イザヤは「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」と告げます。今の世界でもこの言葉は生きて私たちに語られています。「恐れるな」という言葉に耳を傾けてください。私たちの目や耳に入ってくる情報は恐怖をあおるものが多くて将来の漠然としたものに恐れを抱きがちです。そのような私たちに神は「雄々しくあれ、恐れるな」と命じるのです。その理由は、敵を打ち悪に報いる神が来られ、私たちを救ってくださるからです。
「終わりの日」の新しい天と新しい地では5節から8節にあるような世界が現れるとイザヤは告げます。そこに出てくる人々は弱い人々です。目や耳や足が不自由な人、口がきけない人が回復させてもらえます。また荒れ野や砂地といった弱い環境が回復させられます。
マタイによる福音書11章5節に書かれている状況はイザヤの預言と同じではありませんか。イエス様はヨハネの弟子たちに、「終わりの日」の新しい天と新しい地の幻がそのところに実現していることをお示しになったのです。それは主の平和であり平安です。単に奇跡が起きたとか、常識では考えられないことが起きたという驚きを越えた神の国の姿がそこにはありました。
そしてイエス様は6節で『わたしにつまずかない人は幸いである。』と言われました。この「つまずく」という言葉はギリシア語原典では「腹を立てる」という意味があります。ですから言い換えると「私に腹を立てる者がいるはずだ」とイエス様は言われているのです。イエス様に敵対する人々は5節の状況を見聞きしても、「神の御業とはこんなものであるはずはない」とか「神の救いはこんなものではない」と断じるのです。宗教的権威のない者がそのような行為をすることを断罪するわけです。その人々はイエス様を捨てて十字架につけてしまいました。十字架はイエス様につまずいて腹を立てた人びとのつまずきのしるしです。
ヨハネは弟子たちの報告を聞いてイエス様こそ救い主であることを知ったことだと思います。彼は自分でイエス様のおられるところの光景を見聞きすることはできませんでしたが、弟子たちの言葉を聞いて確信したに違いがありません。彼の命のともしびは消えようとしていましたが、救い主を知った彼は平安に包まれたことでしょう。
イエス様はバプテスマのヨハネの弟子たちが帰った後、ヨハネこそ預言者以上の者、すなわちイエス様の前に遣わされた者だと人々に告げました。
救い主はおられます。自分でそのお方を確認できなければ、バプテスマのヨハネにように証言する人の言葉を聞けばよいのです。現代において、救い主の証言は聖書に記されています。それを読めば救い主を知ることができます。そして現代のキリスト者も証言者です。証言者の証言に基づいてイエス様の言葉を行うならばきっと救い主を知ることができるでしょう。
礼拝は主の平安が現れる時です。そしてその場所は平安の場所です。今、私たちはイエス・キリストのことを思い浮かべています。キリストとは救い主のこと。クリスマスは救い主がこの世界に誕生したという神の救いの業です。
平安がこの場所から世界に広がることによって世界は変わります。誰も差別されず、誰からも差別されない平安はイエス・キリストが再び来られる終わりの日にこの世界を満たしますが、神を礼拝するところにおいて平安は現れています。世界が緊張と混沌の中にあり、人々が不安を感じる時にも、救い主を信じることにより平安は訪れます。